一歩先を行く フラッシュ サーフェス デザイン

小林 信一

―― ミラージュの役割

ミラージュの開発は三菱にとっての新しい挑戦であった。それは、三菱が第二の販売店チャンネルであるカープラザを立ち上げて、そこに投入する専用車であったことだ。三菱はコルトギャラン、ランサー、ギャランシグマなどで収めた成功を足掛かりに、販売系列を2つ持つことでさらなる事業の拡大を目指していた。

さらにミラージュは、三菱にとって初のFF車であった。国内では1972年発売のホンダ・シビックがFF2ボックスで登場し、それまでのコンパクトカーのイメージを変える形で世界的にヒットしていた。スペース効率に優れたFF車は、世界の趨勢となっていた。また、ミラージュはランサーとミニカとの間に生まれたギャップを埋める車であったと同時に、北米、欧州、オセアニアに世界展開する車でもあった


―― 6台の1/5モデル

このプロジェクトでは当初からデザインへの期待が大きかった。それは、久保社長は、「おれはスタイリングにはうるさい」と自負する人で、シグマやラムダでそれが実証されていたからだ。生半可なデザインでは承認が得られない。しかし、1/1モデルを2ステージに渡って作ったものの社長の眼鏡にはかなわず、開発は袋小路に入ってしまった。

チーム内でのスケッチ検討

競合車と初期クレイモデルとの比較

初期に製作した2案のクレイモデル

そこで、いったん全てを白紙に戻し、意匠課内でできる限りのデザイナーを集め、一気に6案の1/5モデルを作る事になった。さらに、そのモデルを社内のデザイン評価にかけて、少なくとも方向を見極めることにした。デザイン評価というものは必ずしも正解を教えてくれるものではなく、その結果を我々開発者がどう判断するかが問われるものだ。そこで予め、評価点による順位よりも商品としての狙いと将来性を重視して判断することにした。

1/5クレイモデルをチームメンバーと検討する大島雅夫氏(右側)

完成した1/5モデルの意匠課内でのプレゼンテーション

サーベイにかけられた6案の内、採用案をデザインした大島雅夫(故人)さんは、その20年ほど後にデザイン部門で編纂された社内向け記録資料に、当時の事を次の様に語っている。

私たちは途中からバトンタッチされたのだが、私たちになってからも承認をもらえるようなモデルはなかなか出来なかった。その理由の一つはプロジェクトグループ(車種ごとに開発を統括するグループ)の意向(特にローコスト)が強く、我々を縛り過ぎたためだと思う。その行き詰った状態にたまりかね、我々意匠課の判断で6人のデザイナーによる仕切り直しの競作となった。こうなると自由に腕試しが出来る。私のモデルには、モデラーの伊藤裕さんが担当となった。私の案が選ばれた最大の要因は彼の腕とセ ンスの良さだと思う。承認に向けたプレゼンテーションは本社の会議室でモデラーも同行して社長の久保さんに対して行われた。当時の商品企画部の担当で 「ソフ ト&ク-ル 」のキーワー ドを生み出した森本正三さんが途中で突然入って来て、「2つのモデルが段突に良かった」と前日の社内デザイン評価の結果を報告して、あっさり久保さんに選んでもらった。 その後僕がやったのは、「FAMILY TOOL」 と書いたパネルを作って壁に貼っておいたのをクライスラーの人たちに大笑いされた(家族計画の道具の事だったのだ!)程度で、ほとんど何もせず、小林信ちゃんと水谷さんと入社したばかりの江口さんとに大概の所をやって頂いた。

左上が承認を得た大島氏提案のモデルで、唯一の一体プレスドア提案

採用された大島さんのA案は、当時の国産車に例のない屋根まで回り込んだの一体プレスドアの提案で、ロワボディからキャビンまでが豊かな張りのある面で一体となった新鮮なデザインだった。久保社長は、このミラージュの開発に際して「レス・バルキー、モア・ルーミー」という目標を掲げていたのだが、それはコンパクトなボディの中に十分なスペースを持たせることで、世界レベルの省エネ性能と居住性を両立させるという意味だ。大島さんが提案した、リンゴのように外に向かって張りのあるデザインは、久保社長にとって、「これが自分の求めていたデザインだ」、と納得させるものがあったのであろう。実は、この案はデザイン評価では2番人気だったのだが、久保社長は評価結果ではなく、自らの目で判断されたのだ。

大島さんはこの提案モデルに「アップル=フレッシュ+リッチ」をデザインテーマに掲げていたが、これが元になり、発売時にフレッシュさを強調して、「青リンゴ」をデザインモチーフにしたという宣伝が行われた。

初代ミラージュのコンセプトパネル


――
 「フラッシュサーフェス」 デザイン

デザインの方向が絞られた後は1/1クレイモデルステージに入り、私は大島さんと共にボディ全体の計画を受け持った。大島さんは、その頃登場したアメリカンモータース(AMC)のペーサーのドア周りのデザインに触発されていた。ペーサーの外観は、それまでのドリップチャンネルが突出したデザインに比べて格段にクリーンであり、空力に優れていた。この頃は、とにかく久保社長の号令で、「他社の一歩先を行く車を目指せ」という目標があった。我々は、国産車ではまだ例のないこのドア周りの処理を「ツルツルボディ」と呼び、その実現のために、一体プレスドアのコンシールドドリップ方式という、今までやったことのないドア周りの構造にチャレンジすることになった。これが具現化できたのはスタジオエンジニアやボディ設計の方々の粘り強い努力が功を奏したからだと思う。やがて私たちは、この「ツルツルボディ」の事を英語に置き換えて、「フラッシュサーフェス」(flush surface)と呼ぶようになった。

1975年に登場したAMC・ペーサー

面処理を検討中のクレイモデル

―― ディテールのデザイン

クレイモデルを制作するなかで、大島さんと私は、シンプルでモダンな基本フォルムだけでいかに美しさと上質感を出せるかを考え、面やシルエットの作り込みには相当な時間をかけることとなった。大島さんは基本的なところには拘りがあるが、それ以外は任せてくれる鷹揚な性格であり、私としては仕事がやり易かった。

テープドローイングでディテールを検討する筆者(左側)

モデラーとデザイナーが一緒になってのダイノックフィルム貼り作業

フロント周りのデザインは水谷弘君が担当し、提携先のクライスラー社から情報を得たSAE新規格の角2灯ヘッドランプを前提に計画した。このフロントデザインは、クリーンでありながら一目で認識できる特徴のあるものとなった。また、フロントバンパーは、ロールフォーミングした板金を黒塗装した上にステンレスパネルを取り付けた構成で、コンパクトカーらしい機能的で飾らない良さが出たといえる。また、彼がデザインしたフェンダーミラーは、車体の六角断面を反復した形状で、気の利いた特徴があった。

車が完成し、谷田部のテストコースで走行試験を行ったところ、高速でリヤが上下に揺れることが分かり、急遽リヤゲート上部の金型を改修してリップを付けることとなった。これは江口倫郎君がやってくれた。また、彼がデザインしたディッシュタイプのアルミホイールは外観のイメージに良くマッチしたものとなった。

ミラージュのフロント

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―― 専門家達からの賛辞

ミラージュのデザインについて、1973年3月号のカースタイリング誌で編集長の藤本彰氏は次の様に解説している。

大衆車でこれほどきめ細かに練り上げられたスタイルは世界でもそう多くはない。(中略)この車のサーフェスをクレイモデル段階で練り上げていった過程は示されていない。が、並みの入念さではないことは、生産車の外観からもうかがえよう。(中略)レリーフラインはひかえめであり、ディテールに俗うけを意図した形跡はない。ピュアなスタイリングというべきだろうか。しかし、その反面、情感は抑制された。躍動感も、強調してはいない。山口京一氏いうところのスカイライン的”動質”は、この車のスタイル・テーマにはない。”Dynamic quality”ではなく”High quality”指向なのである。日本車に多い粗野感は排除した。

ミラージュが発表された1977年秋の東京モーターショーでの体験を、大島さんは次の様に語っている。

説明員として立っていたその前に、突然本田宗一郎さんが来られ、ミラージュに釘付けになった。同時に発表されたスペシャルティクーペのプレリュードと同じフルドアだったからだ。また、当時のGMのデザインのボスのチャック・ジョーダン氏に会場で、「今回のショーで最高のデザインだ」といわれたのもうれしかった。

ミラージュとチャックジョーダン

東京モーターショーでミラージュを見るチャック・ジョーダン氏(中央) 出展:モーターファン1977年12月号

更には、発表翌年の第49回ジュネーブ国際モーターショーではモスト・ビューティフル賞の3ドア部門で第1位となった。こうした賛辞をいただいて、私たちは大変光栄であった。ミラージュのドア周りの処理は、それまでに比べて金型が大きくなるなど準備費が掛かるものであり、この時、他社のデザイナーからは「三菱のデザイナーは技術と資金のサポートがあって恵まれている」という声が聞こえてきた。しかし、私の長い経験の中でも久保社長がデザインに拘りながら開発を主導していたこの時代は特別で、普段コストにうるさい面々も、久保社長の前では静かであった。当時はコストのかかるこのフラッシュサーフェスだったが、80年代に入ると燃費性能向上の重要な要素となり、欧州でも広まり、やがて当たり前になったのである。


――
 三菱最大のヒット

ミラージュは1978年に発売され、三菱過去最大のヒット作となった。北米では、クライスラーのダッジ・コルト、プリマス・チャンプとして販売され、第二次石油ショックの真っ只中にアメリカの環境保護庁(EPA)から燃費第一位の評価を受けて人気を博した。国内では、商品企画部の森本正三さんの発案でおこなった、ミラージュボウルを始めとしたアメリカ西海岸をテーマとした他社にないキャンペーンが功を奏したのも良かった。

今振り返ると、ミラージュのデザインは、まず久保社長の美しいデザインに対するこだわりと、一歩先を行くという姿勢があり、そこを目指して各担当デザイナー達が自身の創作力を発揮したことで生まれたのだと思う。

ミラージュのイメージスケッチ

デザイン完成後に大島雅夫氏が描いたイメージスケッチ

氏の談話を元に編集者がまとめました   2022年2月


鮮やかさで特徴付けしたカラーデザイン

吉平 浩

―― テーマはカリフォルニアライフスタイル

初代ミラージュ(以下ミラージュ)は、私が入社3年目にして初めてカラーデザインのコンセプト立案段階からデザイン承認まで一貫して担当させてもらった、思い出深い機種である。その開発は発売3年前の1975年頃にスタートした。

当時日本の若者に人気の2ドアハッチバック市場では、ホンダ・シビックやマツダ・ファミリアに遅れての登場となる為、カラーデザインで新鮮な登場感を意識した。しかし、大衆車故カラーデザインに使えるコストは非常に厳しく、斬新なスタイリングデザインに対し、お金を掛けず如何にして質の高い効果的なカラリング演出が出来るかに腐心した。当初は2ドアハッチバックのみの開発だったので、その頃日本で流行し始めていた米国カルフォルニアの若者ライフスタイルを意識したカラーデザインを立案した。

―― 狙いは「鮮やかさ」

車体色では、当時の技術レベルでは色再現性に劣っていたメタリックカラーではなく、ビビッド(鮮やか)なソリッドカラー(イエロー、グリーンなど)をテーマカラーとし、一般的なホワイトは、あえてローグレードでの設定とした。一方インテリアカラーでは、当時としては画期的と言っても良い高彩度なオレンジやグリーンを採用した。その背景には、大半のグレードではシート生地素材にあまりコストが掛けられないので、無地のニット素材(編物)を採用せざるを得ないという事情があり、色彩で特徴付けする事とにしたわけだが、結果的にはシンプルでモダンな内装にする事が出来た。シート素材にコストを掛ける事が出来る最上級仕様には、高級なスポーティカーで採用例が多いアイボリーホワイト内装を設定。そのシート素材にはエレガントな市松模様のファブリック(織物)を採用した。以上の様に、内外色共に当時の日本車では見られなかったはっきりしたカラーを採用したが、内外カラーコーディネートを工夫したことで、お洒落な印象に仕上げる事が出来た。

試作車によるカラリング検討会風景

初代ミラージュのカラー検討

関連部門とのカラリング検討会議

―― クライスラー流のプレゼンテーション

こうしてカラーデザイン案はまとまったが、難関が待受けていた。対象ユーザー(若者)とは年のかけ離れた幹部や保守的な営業部門に対し、今までの三菱車にはなかった斬新なカラーデザインを承認してもらうためにどうすれば良いかだ。あれこれと悩んだ末、社内承認会のデザインプレゼンテーション手法にひと工夫した。当時提携していたクライスラー社のカラーデザイン開発手法を参考として、それぞれのインテリアカラー別にイメージキーワードを決めたうえで内外カラーコーディネートデザインをパネル化し、判り易く説明した。

内外カラーコーディネイト計画パネル

―― 振り返れば

苦労した甲斐があり、ほぼ提案通りのカラーデザイン案が承認され量産される事となった。振り返ってみると、三菱においてはスタイリングデザインに比べてカラーデザインの重要性が社内で認識されるのが遅かったと言える。この初代ミラージュの頃からユーザーの心を捉えるための要素として一段とカラーに力を入れた開発が始まったと感じている。その後、カラーの重要度は一層高まり、現在では、単なる色や素材といったものから、感性品質(見て・触って感じる品質感)というレベルで車の商品性で大きな役割を担っていることは感慨深い。昨今、三菱車のカラーデザインが市場で評価されている事を耳にし、OBとしてとても嬉しい気持ちになるとともに、今後益々の発展を期待したい。

2021年12月