目指したのは ”砂漠のF1”

 

山本 憲

―― 突発的なオーダー

始まりは1987年初秋、上司の大島チーフデザイナーから2代目パジェロのデザイン開発を担当していた安倍デザイナーと私への口頭でのオーダーだった。1983年からパリ・ダカールラリー(以降、パリダカ)に参戦していたパジェロは、高速になるとポルシェの後塵を拝すると言われていた。そこで、高速化に対応した新しいデザインのプロトタイプが必要となり、ラリー事業部門からデザイン部へ依頼が来たのだった。

新しいプロトタイプのデザインという魅力的な特命業務に、多忙なライン業務からひと時でも解放されるという思いもあって飛びついた。

1986年優勝のポルシェ959はダカールラリーを高速レースへと変貌させた  画像提供:Auto Zeitung

パジェロプロトタイプ86年モデル

しかしこの依頼は、日程はおろかベースとなるレイアウトやアウトプットの体裁などが一切提示されていなかった。ただ「デザインしてくれ」というだけで、あまりの大雑把さに戸惑った。普通に考えると、これが意味するところは、「やり方は任せるので、空力性能の良いデザインを早く送って欲しい」ということだろう。年頭開催のパリダカを想定すると、凡そ4か月弱しかない。プロトタイプ製作、試験走行の日程等考えると、ラリーには素人の我々でも、ぜんぜん時間が足りないと思った。更に、我々はこの仕事を間接的に受けていることから、プロトタイプ製作の取りまとめであるソノート社(フランス)に色々と問い合わせても何時返事が帰ってくるか見通せない。八方塞がりの中、我々の出来ることは最短時間でデザインアウトプットするしかないと割り切り、自分たちで前提条件を策定し、さっさと仕事に取りかかろうと考え、検討を開始した。

この仕事は、本業である2代目パジェロの業務への影響を最小限にするためにも、短期間でこなさなければならない。そこで日程は今回肝となる風洞試験を含めて1.5ケ月と設定。デザイン計画のベースは、これで行けるだろうと考え、2代目パジェロショート(ワイド)の基本レイアウト図とし、最終アウトプットは、短時間でできる1/4モデルと外形形状を正確に伝える図面とした。

 

―― 2時間でまとめたデザイン案

設定した1.5ケ月は、途中のデザインリファインさえも組み込まなかったので、全く余裕はなかった。本来なら、まず空力試験担当の機能試験課(以降、機能試)とデザインとで空力の目標値を設定し、それに見合った形状の見通しを事前に立てた上で、アイデア展開をしていくのであったが、それでは間に合わないと判断。荒業であったが、我々で空力向上のアイデアと基本形状を仮設定し、それを機能試にぶつけて双方が風洞試験場でブラッシュアップしてくことにした。さて、いざ仕事に取り掛かろうとしていたその時、たまたま別グループの青木デザイナーが近くを通りかかったので、ノリの良い彼を巻き込んで、その場でブレーンストーミング。2時間でアイデア出しをし、それを基にしたラフスケッチを3案にまとめた。デザインテーマは、「パリダカでの好敵手ポルシェやプジョーを凌駕する”砂漠のF1”だ」と我々は意気込んだ。

最大の目標は、高速性能を上げるために、空力性能を追求することだ。具体的には、全高を抑えて前面投影面積を少なくし、ルーフ後方をなだらかにスロープダウンさせて車体後端の空気の剥離ポイントを下げ、ノーズ、ウインドシールドを寝かせることで、空気抵抗の低減を狙った。さらに、大きなリヤウイング(走行条件により角度可変を想定)とそれを支える左右の垂直尾翼を組合せることで、サイドビューではパジェロイメージの2ボックスに見える処理としながら、高速走行に適したデザインとした。以上が我々の限られた空力知識と、ヤマカンで考え出した内容だった。

フロント周りには、デザインが決定していた2代目パジェロのデザインモチーフを盛り込み、思い切って先出ししたつもりだったが、発売されても、社内外含めて誰もこのことに気付いてくれなかったのには本当にガッカリ!デザイナーの独りよがりだったのか。

ラフスケッチを描く筆者

―― 協力会社の全面サポート

我々は2代目パジェロの仕上げ作業に忙殺されていたので、出来上がったラフスケッチ3案を協力会社のニムラデザインさんでレンダリング化して頂いた。カラー&グラフィックについては、87年モデルのイメージを盛り込むように口頭でお願いした。実のところ我々2人の間では暗黙の了解で本命は決まっていたが、レンダリングが期待通りに良く出来ていたので方向付けも容易だった。そして大島チーフデザイナーによるチェックもそこそこに次の図面作業に取りかかった。

セレクトされたレンダリング

 

 

2代目パジェロショート(ワイド)の基本レイアウト図上に外形シルエットだけの大まかなテープ図面を作り、それとレンダリングを基に1/4モデル用の図面作成を再びニムラデザインさんに依頼した。本来なら自分たちでやるべき仕事だったが、本業の忙しさを考えればこうするしかなかった。そして出来上がった図面を基に、空力試験用とデザイン検討用モデルを新巧模型さんに依頼。また、レンダリングでのカラー&グラフィックはなかなか良かったので、このモデルにも反映するようお願いした。こうして我々は最短時間で作業を進めることができた。我々がこの様に厳しいスケジュールをこなすことが出来るのは外部のバックアップがあるおかげであった。

デザイン検討用のスケールモデル

 

―― 根気のいる風洞試験

完成したモデルの確認もそこそこに、いよいよ空力試験に取りかかった。モデルと修正用のクレイや工具を風洞試験場に持ち込み、機能試の亀山さんと共に計測を開始。いちど計測するたびに、その場での形状修正を何度も繰り返す根気のいる作業だ。その中で忘れられないのは、大きなリヤウイングを支えるために必要だろうと付けた支柱が、大きな抵抗となることが判明し、取り除いたことだ。他にフロントエアダムの形状修正等、試行錯誤した甲斐があってCd値は2代目パジェロに対して20%向上させることができた。この作業は我々のラフなアイデアを基に、機能試とデザインが立場を越え、ごちゃ混ぜになって一気呵成にアウトプットを作り上げて行ったというのが実態だったが、最後は亀山さんの協力で空力特性を改善することができ、ありがたかった。

パジェロプロト88風洞試験ー1

                パジェロプロト88風洞試験ー2

 

―― ソノート社からの写真

空力試験が終わった時点ですでに時間がなくなっていたので試験結果を基に図面のみ修正し、1/4モデルはオリジナルのままでソノート社に直送して仕事を終えた。その後、ソノート社からは何の連絡もなく、ほとんど忘れかけていた頃、たまたま製作中のプロトタイプ写真を見る機会があった。そこで初めてモデルが無事に着き、我々の意図通りに製作が進んでいるのが分かってホッと胸をなでおろし、同時にちょっと感激した。後は、本番の「パリダカ総合優勝」だ。

 

パジェロプロトタイプ製作中                      

―― 第10回パリ・ダカールラリー

第10回大会は、1988年元日にパリをスタート、セネガルの首都ダカールまでの13,000kmを22日間で走破するレースとなった。結果は、プジョー205を駆るユハ・カンクネンが総合優勝。三菱は、87年モデルを駆る篠塚建次郎が総合2位でフィニッシュ。期待をかけた88年モデルはリタイアし、我々にとっては無念な結果となった。そして、篠塚さんの好成績を素直に喜べなかったことを申し訳なく思った。 (三菱自動車/”ダカール・ラリー1988”)

優勝したユハ・カンクネンのプジョー205

2位でフィニッシュした篠塚建次郎のパジェロプロトタイプ87年モデル

リタイヤに終わったパジェロプロトタイプ88年モデル

―― 実車との対面

ラリー終了後、88年モデルは次年度に向けての開発に参考となるデータを取るため、岡崎実験部に送られてきた。そこで我々は、一日借用させていただき、デザイン部に搬入してレビュー。実物を見るのはその時が初めてだった。一見した印象は、1/4モデルからよくぞここまで再現されているものだと感動し、モデラ―の高いスキルに驚かされた。トランクルームの限られたスペースを有効に使ったスペアタイヤの置き方に「あっ、こんな風にスペアタイヤ積むんや」と、ただただ感心して見ていた。

また、デザイン処理の意図とは無関係に切りか欠かれたフロントホイールカットを見るとあきれるしかなかったが、走行性能には影響ないと割り切った処理だと考えると、それは明解で量産車デザインとは異次元の車づくりだと思った。ただ、じっくり見ていくと、スケッチのイメージと比べ全体的に引き締まった感じが不足気味で、ガッシリした力強さに欠けるように思った。現実的には叶わぬことであったが、もう一度リファインすれば確実に良くなると思った。


パジェロプロトタイプのレビュー

 

パジェロプロトタイプのレビュー2

 

―― プロトタイプデザインという特命業務

この特命業務のキーワードは「担当者の自由裁量」だったと思う。製作現場からの情報が無いため上司に判断を仰ぐのも困難な中、この特急の仕事をまとめるには、全てを任せてもらうしかなかった。そんな中で状況判断し、計画して、所期の目標を達成出来たのは、この業務の特殊性を理解し、我々の思うようにやらせてくれた大島チーフデザイナーの配慮、ならびに機能試と協力会社のサポートのおかげだったと感謝している。

また、プロトタイプは勝つ事が全てで、デザイナーはどこまで関われるか、関わるべきか、モヤモヤとした疑問を持った。絶対に勝つためのデザインとはどうすれば良かったのか?答えは未だに分からない。しかし、88年モデルでの優勝こそ逃したものの、我々の仕事はその後のプロトタイプデザインに受け継がれたのは嬉しかったし、何よりもめったに出来ない仕事に巡り合い、大いに楽しんでデザインすることが出来たのは幸運だった。

デザインチーム、筆者(左)大島雅夫チーフデザイナー(中央)安倍武利氏(右)

2023年3月