三菱デザインアイデンティティの追求

古川 勝

コンセプトステージ

初代ランサーは、国際ラリーでの活躍で三菱の名を世界に広めたのみならず、国内外の販売でも成功を収めた。その後継車ランサーEXは、一足先に登場した初代ギャランシグマの下のクラスだが、初代ランサーより一回り大きな車体で居住性を大幅に改良したパッケージングとなった。

デザインのスタートは1976年後半ごろだった。中川多喜夫さんをチーフとする私たちのチームは、先ずデザインの構想について検討したのだが、この頃「デザインアイデンティティ」という言葉がカーデザインの世界で取りざたされていた。欧州自動車メーカーは、上から下まで全ての車種のデザインに一貫性を持たせると同時に、モデルチェンジでもその基本となる特徴を受け継ぎ進化させるという考え方をしていた。それに対して日本のメーカーは、車種ごとにデザインの特徴が異なるだけでなく、モデルチェンジではそれまでと違う方向のデザインに変えるケースがほとんどであった。このランサーEXデザインのスタートにあたり、私たちの中で、これからは三菱としても自動車メーカーとしてのデザインの独自性と一貫性、つまりアイデンティティが必要ではないかとの考えが持ち上がってきた。

欧州車のデザインアイデンティティについて検討したパネル

セッサーノ氏への依頼

1973年の社長就任以来、デザイン開発に強いこだわりを持って関わってきた久保社長は、ギャランシグマ/ラムダ、ミラージュでデザイン面でのリーダーシップを発揮していたが、このランサーEXの開発にあたり、イタリアのアルド・セッサーノ氏にデザイン提案を依頼することとした。それまでに、ジョルジェット・ジュジャーロ氏に提案を依頼したことが複数回あったが、この時セッサーノ氏に変更された理由は定かではない。

セッサーノ氏は1931年イタリア・トリノの生まれで、トリノ工科大学建築学科を卒業してフィアットに入社。25才でチーフデザイナーとなった後、37才で独立し、自身のデザイン事務所セッサーノ・アソシエイツを設立。自動車のみならず様々な工業デザインを手がけた。彼のデザインの特徴はシンプルでクリーンな基本デザインの中に独自の特徴を持たせるもので、セアト1200スポーツはその代表例だ。そのセアト1200スポーツの仕事が終わった1977年、彼は事務所をオープンデザインと改称し、新たに数名のデザイナーを採用した。セッサーノ氏46才の頃だ。そしてその年、三菱からランサーEXの仕事を依頼された。

クリーンな面処理のセアト1200スポーツ。フロントエンド全体をバンパーとする処理は先進的だった

アルド・セッサーノ

 

さて、セッサーノ氏から私たちの元に11案のスケッチが届いた。提案の内容はかなり幅広く、ノッチバック、ファストバック、セミファストバック等様々であったが、その中から久保社長は、明快なノッチバックで、スラントノーズの案を選び、この案をベースとした1/1モデルの製作がセッサーノ氏に発注された。

 

三菱社内案の展開

一方私たちは、デザインチームで描いたスケッチを元に4案の1/5モデルを製作した。私は三菱のデザインアイデンティティとは「質実剛健」・「力強さ」だと考え、デザインテーマを「折り目正しいオーソドックスセダン」とし、フラットな面とシャープなラインを組み合わせたボクシーなデザインとした。

久保社長に4案の1/5モデルを見せたところ、片山松夫さんの6ライトの案と私の案が選ばれて各々1/1モデルへと進んだ。1/1モデルは各々3人のチームで取り組んだ。私の案はボディをボクシーに見せるという意図から、ボディ最外側のプランヴュー(平面視)を、それまでの三菱のセダンで標準的に使っていた5万Rから7万Rに変えるなどし、フラットでシャープな面構成とした。その後、クレイモデルが完成した段階で私の4ライト案が三菱社内案として選ばれた。

 

1/5モデルを検討する筆者(左側) / 4台の1/5モデル製作      

筆者がデザインした4ライト案モデル

片山松夫氏がデザインした6ライト案モデル

デザインセレクト

1977年の夏の終わりごろ、社内の1/1モデルは完成し、時を同じくしてセッサーノ氏のモデルがイタリアから送られてきた。デザイン検討会議の日、久保社長ら幹部が東京の本社から岡崎のデザインスタジオに来訪され、その日は天気が良かったので屋外展示場に2台のモデルが展示された。幹部の皆さんに共通した第一印象は、「両案よく似ている」というものだった。確かに、どちらも基本はオーソドックスでボクシーなデザインであり、ボディサイドのデザインラインやフロントの周りのデザインの構成も似ていた。社内案同士ならデザイナーは意図的に違う方向を目指すが、この場合は偶然同じ方向となってしまった。久保社長の結論は、岡崎案をベースにセッサーノ案の良いところを参考に進めるというもので、その後の量産に向けたデザインリファインは私たち三菱のデザイナーが行うこととなった。

「折り目正しいオーソドックスセダン」をテーマとした社内案モデル

リヤウインドウはベントガラスを特徴としていた

量産に向けて

私の見方では、セッサーノ案はシャープな彫刻的フォルムで、適度な前後の絞り込みや面の張りがあり、がっしりとした雰囲気に彼の感性の高さが感じられた。一方で私たちの案は、いかにも定規を使って作った様なフォルムで、細かいところに凝っていたが、目指していた力強さが十分に出ていないのは正直言って残念であった。

さて、次のステージでは、社内案をベースとして量産のための技術条件を盛り込みながらリファインに取り組んだ。中川チーフと色々相談をして、セッサーノ案の太めの”C”ピラーや厚めのボンネット先端などの要素を取り入れて、全体として力強さを出す方向とした。その一方でセッサーノ案に同じ技術条件を盛り込んだモデルも新たに作り、リファインモデルとの比較検討が出来るようにした。そしてリファインモデルが出来上がると、周囲から「これはほとんどセッサーノ案だね」という声があがった。セッサーノ案の良いところを取り入れたので当然なのだが、我々の目標は三菱らしさのある良いデザインを作ることなので、そうした声は気にせず仕事を進めた。

セッサーノ氏のデザインを元に社内で製作したクレイモデル

太いCピラー、ホイールカットまで回り込んだバンパーが特徴

結局その後、社としてもセッサーノ案がランサーEXのデザインのベースとの認識になったと思う。これは我々にとっては仕事の上で大差ないものの、セッサーノ氏にとっては、契約上成功報酬が加わるという話のようで、大きな違いであった。

その後ある時、セッサーノ氏がデザインコンサルテーションで我々のスタジオを訪れ、製作中のモデルを見て「ここはちょっと私のオリジナルと違う」との指摘があった。しかし私は「イッツ ノ- プロブレム」と返して、三菱車としての仕上げはこちらにまかせて欲しいと対応した。彼はさっぱりした温厚な人柄で、こちらからものを言いやすかったせいもあるが、私は結構彼のデザインをリスペクトして仕上げたと思っている。

セッサーノ案の良いところを取り入れた最終デザイン

 

モデラーの制度の改革

少々話は横道にそれるが、三菱では従来から、デザイナーが描いた詳細な図面を元にしてモデラ―が図面通りのクレイモデルを作っていた、その影響で定規の線から生まれた様な無機的デザインに陥りやすく、私のこの時のモデルもまさにそれであった。一方でアメリカのモデラーは、スケッチや簡単な図面からデザイナーの意図を汲み取り、創造的にモデルを作り上げる。我々はそれを知ってはいたが、それが出来る体制が出来ていなかった。というのは、当時の三菱のモデラーは、技能職(工場等での直接的単純業務)の位置付けで、専門的で創造的な業務を求められていない立場だったのだ。そこで、その後私が管理職となった時に、本社の人事部門と折衝をかさね、モデラーが希望により、デザイナーと同じ事技職(専門知識に基づく創造的業務)に付くことを可能とする制度を実現した。こうして創造的センスのあるモデラーが、デザイナーが求めるイメージを手わざで作る「自由創製」ないしは「フリーモデリング」と呼ばれるやり方が我々のデザインスタジオに定着したのだった。

デザイナーが描いた図面を元にクレイモデルを作るモデラー達

発売

1979年4月にランサーEXは発売となった。初代の登場から既に6年経っていたので、居住性を大幅に改良し、デザイン面では三菱として初めて車体との一体感のあるプラスチック製バンパーを採用するなどして大きく進化した車となった。しかし世の中は、このクラスの車はさらに室内空間の広いFF車に切り替わりつつあり、FRを継承したこともあって残念ながら商売としては成功しなかった。(当初FF化の検討もされたが技術的にまだ難しいと判断された)それでも、セッサーノ氏の協力のおかげで、この車はギャランシグマと共に三菱としてのデザインアイデンティティの基礎をかたち作ることが出来たと思う。

発売後数年して三菱は、初代ランサー以降しばらく途絶えていたWRCに1981年シーズンからランサーEXで再び参戦することになり、そのデザインの依頼が我々のところに舞い込んできた。この車には2リッターで250psを発生する新開発の4G63型エンジンが搭載される計画で、我々としては期待が大きいと同時にやりがいのある仕事であった。これは若手の桑原龍彦さんが担当し、エアダム付き大型フロントバンパー、オーバーフェンダー、サイドエアダム、リヤスポイラーなどに加えて、初代のラリー車のカラリングを一層進化させたオレンジのカラリングで、一段と迫力のある外観となった。この車は1979年11月の東京モーターショーで発表され、それまでやや地味な印象だったランサーEXの鮮やかな変身ぶりに、大きな注目が集まったのはうれしかった。

ランサーEX ラリー仕様デザイン

ランサーEX ラリー仕様デザイン

1979年東京モーターショーで発表されたランサーEX2000ターボ ラリー車   (画像提供 Motor Fan/CARSTYLING)

欧州向けの輸出が始まった頃に、会社としてセッサーノ氏の貢献に応えてランサーEX1台を彼に贈呈することとなり、プロジェクトマネージャーの大石秀夫さんらが、その車を陸揚げ港のオランダ・ロッテルダムからイタリア・トリノの彼の事務所まで運転して直接渡したところ、セッサーノ氏は大変喜ばれたと聞いた。その後、三菱と彼の付き合いは乗用車のみならず別部門の三菱ふそうのトラック・バスも含めて長く続き、三菱はイタリアからの良い刺激を受けることになるのである。

欧州向け 2000 Turbo

国内向け1600XL

1998年トリノでのセッサーノ氏(中央)

2023.9.20
(古川勝氏の談話を元に編集者がまとめました)