金子徳次郎氏による先進ファストバックデザイン

 

小林 信一

 

―― 水島製作所とは

コルト800は新三菱重工の水島製作所(岡山県倉敷市)で生産された乗用車だった。当時の新三菱重工の自動車事業は名古屋製作所と水島製作所とで別々に行われていて、その理由は、各々が戦時中には主に軍用機の開発、製造を別々に行っていたことによる。軍需工場とは、攻撃に備えて各地に分散させるものだったのだ。戦後になってGHQにより航空機の製造は禁止されたため、両製作所は自動車事業に力を入れ、水島ではオート三輪と呼ばれるトラックに始まり、ミニカなどの軽自動車を生産していた。


―― 嘱託デザイナー金子徳次郎氏

水島製作所初の本格的乗用車コルト800の開発は、ちょうど私が入社した1963年に始まった。デザインチームのメンバーは、嘱託(フリーランス)の金子徳次郎氏、通称徳さんがリーダーで、他には1年前に入社した岡野勝さんと私と、名古屋製作所の意匠係からの応援3名などであった。徳さんは、東京芸大を卒業の後、仙台の工芸指導所を経て独立し、三菱に招聘された工業デザイナーで、当時51歳であった。既に、オート三輪みずしま号TM15に始まり、レオ、ジュピター、三菱360、初代ミニカ、ジュピタージュニアまでをデザインしていた。この頃、富士重工のスバル360、マツダのR360クーペなどもフリーランスの工業デザイナーを招いてデザインが開発されているが、社内のデザイン部門がまだ確立されていない状況は三菱も同じで、私たちの所属は設計部車両設計課であった。

金子氏のデザイン」

 左上から時計回り みずしまTM15、レオ、ジュピター、三菱360、ミニカ、ジュピタージュニア

―― 徳さんの教え

入社後まもなくして意匠室が整備されたが、そこは古い木造倉庫だった。コルト800のデザインは基本的に全て徳さんがまとめ、私たち若手は徳さんの手となり足となって、モデル用の図面を描くなどして作業を進めた。モデル製作スタッフは製造部門や試作部門などから集められ、デボネアやコルト1000で本場アメリカのクレイモデリングの実績がある名古屋からの応援メンバーのアドバイスを得てクレイモデルを作った。徳さんは我々の教育者でもあり、デザインをする時の考え方やアプローチの仕方など、多くのことを熱心に私たちに教えてくれた。その時に教わったデザインの基本とは以下のもので、何度も繰り返し言われたので今でもしっかりと記憶に残っている。

・今日の常識は明日の非常識、現状にとらわれずに一歩先を考えること
・自然の形、色、生態、仕組みなどを良く観察すること
・仕事や遊びに視野を広げて挑戦する

徳さんは、自由奔放で実にバイタリティのある人だった。その生き方はダイナミックで、戦前に16歳で渡米して学び、戦時中は工芸指導所で家具から軍用機までさまざまな仕事に携わった。とにかく良く働き良く遊ぶ人で武勇伝には事欠かず、憧れとする祖父は、19歳で渡米してゴールドラッシュの頃に財を成したとのことだった。仕事を離れて飲み会やバーベキューパーティなどで、そうした豊富な人生経験を元に私たちの知らない世界の話を聞かせてくれた。徳さんは、人生の先輩としても我々を引っ張っっぱる存在だった。

金子徳次郎氏の講義

スタッフに講義をする金子氏

―― 特長的デザイン

徳さんがこのデザインをまとめるのにどの様な苦労をしたのか、残念ながらほとんど覚えがない。私はまだ入社したてだったので、彼の指示に従って自分の仕事をするだけで精一杯だったのだと思う。しかし、出来上がったデザインは当時の私にとって斬新かつスポーティであり、たいへんに刺激的だった。

 コルト800のデザインの最大の特長はファストバックだ。当時の乗用車の主流はメルセデスベンツを代表とするノッチバックセダンで、ファストバックの乗用車は少なく、シトロエンDSやサーブ96などがあったがいずれもリヤスペースを効率的に活かしたデザインではなかった。一方で背の低いスポーツタイプの車では、空力に優れたファストバックを採用する例があった。徳さんは、ここでそれまでの常識を超え、乗用車で空力とスペース効率を両立させたファストバック車をデザインしたのだ。

シトロエン DS  画像提供:Motor Fan / CARSTYLING

初期のスケールモデル

第二の特長は外フランジ構造である。これは車体パネル同士のスポット溶接がし易くなると同時に、パネルのプレス成型も容易になるという生産上のメリットがある。コルト800では、フロントフェンダーからルーフを経てリヤピラーに至るまで全て外フランジにしており、これは他車に例がなかったと思う。この同じ外フランジ構造を部分的に採用したファストバックスタイルの車としてルノー16があるが、発売はコルト800の9ケ月前で、私たちが開発している時点ではその事を知る由もなかった。徳さんが生産性を考えてこの処理を用いたのは、私にとって学ぶところが大きかった。

ルノー 16  画像提供:Motor Fan / CARSTYLING

第三の特長は、ドアにカーブドガラスを採用した事だろう。これは国産車で初であったが、ほぼ同じ頃スズキ・フロンテ800も採用している。ガラスにボデーと同じような丸みが付くことで車体全体に一体感が出て、デザイン性は大きく向上する。三菱に限らずこれ以降の車は皆カーブドガラスを採用することになった。もっとも、カーブドガラスそのものの開発は旭硝子(現在のAGC)などのガラスメーカーの努力によるものだが、徳さんの先取の考え方がここにあったと言える。

初期デザインのFRPモデル

アクリルの窓を取り付けた最終デザインのクレイモデル

―― 注目は浴びたが販売は振るわず

1965年11月にコルト800は発売となり、先進的なスタイルはメディアなどからも大いに注目された。私たちは、自分たちの力で乗用車を作り上げたことに大いに達成感を感じた。しかしコルト800の販売は、先行するマツダ・ファミリアには及ばす、翌年発売された日産・サニー、トヨタ・カローラの爆発的な成功の陰に隠れた存在となり、いわゆる「マイカーブーム」の波に乗ることはできなかった。

私は発売後にコルト800に試乗したが、加速や走行性能は申し分なく、これは素晴らしい車だと思った。しかし、市場では2サイクルエンジン特有の甲高い排気音や白煙で評判は良くなかった。水島製作所ではその頃、もっぱら安くて、軽量で、馬力のある2サイクルエンジンの研究・開発に力を入れていたが、時代は少しずつ静粛で燃費の良い4サイクルへと移っていたのだ。

コルト800
―― ハッチバックで梃子入れ

市場の反響を元に、発売2年後にはエンジンをコルト1000の4サイクルエンジンとし、それまでのトランク仕様に加えてハッチバックモデルを追加したコルト1000Fへと変更し、テコ入れが図られた。このハッチバックは、ヨーロッパでのルノー16の成功に刺激されたものだった。私たちは、これからはハッチバックの時代が来るに違いないと考え、エンジニアと一緒にハッチバックを計画した。使用済みのコルト800の試作車を利用して板金作業やFRP作業に取り組み、トランクをリヤゲートに改造して幹部の承認へとこぎ着けた。日本初のハッチバックは、3代目コロナの追加バリエーションであるコロナ5ドアに一歩先を越されたが、どちらも市場では評価されなかった。その後、大衆車でハッチバックが本格的に受け入れられたのは1970年代に入ってからで、ミニカ’70と初代シビックがその先頭だった。モータリゼーションが始まったばかりの1960年代は、乗用車といえばまだノッチバックセダンだったのだ。コルト1000F―― むすび

今にして思えば、当時私が刺激的と感じた外観も少々アクのあるデザインだったと言える。思い返すと色々な事があと少しで、力及ばずだったことが悔やまれる。しかしそれでも、新しいファストバックデザインの車を創り出し、水島製作所初の本格的乗用車をまとめた金子徳次郎さんの意欲的な姿勢は素晴らしかったと思う。また、彼に教わったデザインに対する考え方は私たち若いデザイナーの力となり、その後の仕事で大いに活かされることになった。その後、三菱の乗用車開発部門は1970年に愛知県岡崎市に集結するのだが、水島でデザイナーとモデラーとエンジニアが一緒になり、夢中で仕事をした事は忘れられない。この頃は皆が寝食を忘れ、がむしゃらに仕事をしていた。それは、物を造ることの喜びを強く共有していたからだと思う。

金子徳次郎氏とデザインチーム

デザインチームとコルト800 中央が金子徳次郎氏

氏の談話を元に元同僚の大川允氏、今田信孝氏の協力を得て編集者がまとめました。

2022年1月