幻と消えた三菱初のスポーツカー

 

三橋 慎一

三菱自動車を退職してぶらぶらしていた1997年ごろ、私は、「デザイン部門の歴史をまとめておきたいので、社内向け記録誌の編纂をしてほしい」という依頼を三菱から受けた。そこで「三菱自動車デザインの軌跡」と題して、主な車種について、担当したデザイナーに当時の思い出を書いてもらうことにした。おのずと生産車の話が中心になるが、諸々の事情で生産まで至らなかったいくつかのクルマについても、書き残す事が必要ではないかと考えた。不運にも幻に終った開発には多くの教訓が残されており、歴史に残しておく事が重要だと考えたのである。それらの車の中には、私が初めてチーフとしてデザインを任されながら、幻と消え、今でも心に強く残っているクルマがある。そこで、当時寄稿した一文をもとに、もう一度その思い出を辿ってみようと思う。

―― 「スポーツカー計画スタート」

新三菱重工名古屋製作所に意匠係が発足して以来、我々には「スタジオ日誌」を付ける習慣が出来ていた。各スタジオのグループ毎に全員持ち回りでその日の出来事を書き連ねていくもので、時には上司や幹部に反発したり抗議する内容もあり、他の人に見せられる代物ではない。1964年10月20日に新調されたスタジオ日誌には赤い表紙に「SPORTS CAR 〇〇」(〇〇は開発記号)と書かれており、1ページ目には「〇〇系列スポーツカー計画スタート」とだけ書いてある。

その日の朝、我々は部長室に呼ばれ、坪田部長から新規開発車の説明を受けたのだ。まず冒頭に「これは三菱初のスポーツカーだ」という部長のうわずった声に驚いた。「このクルマは、コルト1000/1500のコンポーネントを一部使うが、外観、内装ともに新作する。後席は最小限の2プラス2レイアウト、スタイルは空力性能に優れた流麗なイメージ」と、企画の概要と日程が読み上げられた。最後にもっと驚いたのが次の言葉だった。「デザインのチーフは三橋君だ」。入社5年目の若輩で、それまで部長に逆らう様な態度さえ取ってきた私にこの仕事を任せようというのだ。

―― デザイン案の展開

デザインの最初のメンバーは私を入れて3名と数少なかったが、すぐに増強され、皆で競い合うようにスケッチに取り組んだ。一概に「スポーツカー」と言ってもその範囲は広い。ホットなタイプからおとなしいタイプまで多様なデザインを展開し、それをプロポーションが分かりやすい三面図的なスケッチににまとめた。

初期のスケッチ

 

3案のスケッチ

 

その後はスケッチから1/5モデルの作成に移行し、方向性の異なるA案からC案まで3つのモデルを完成させた。A案が最もホットなファストバック、C案がおとなしいセミノッチバックで、我々は秘かにA案の採択を望んでいた。

モデルを前にして、元来保守的な坪田部長は案の定おとなしいC案が良いと言っている。しかし次に予定されているデザイン方向付け会議では、自動車事業部長の久保常務が出席される。久保さんは戦中、航空機の設計技師で、手がけられた「百式司令部偵察機」通称「新司偵」は流麗な美しい機体で知られている。あのような機能美を追求した人だから、きっとファストバックのA案が選ばれるだろう、我々はそう信じていた。

久保富夫氏が設計した百式司令部偵察機

ショックだった。私の説明のあと、久保さんが指さしたのはC案だった。我々若いスタッフが推していたホットなデザインは否定され、オーソドックスで無難なC案が選ばれたのだ。意外な結果だった。坪田部長以下お偉いさん方は、ほっとした表情をしている。これは一体どうしたことか・・・。自信をもって推薦していただけにショックだった。「決まったのはええけど、ほんまにこれでええんかなあ」「フロントは、これではおとなし過ぎて迫力ないんとちゃうか」「そんなこと今更言うてもしゃあないじゃん、折角決まったんじゃ。ええやないか」「そりゃそうだけど、最後までがんばらにゃ、やったことにならんて」「こうすりゃもっと良くなるという別案をやらせてくれと、上に言うべきじゃないんか」「じゃあ、誰がどうやって説明するんだ」その時、そばにいた先輩の家田さんが言った。「三橋、お前チーフだろ、お前が言え。今度久保さんが来たとき直接言ってみろ」私は困ったことになったと思ったが、皆の総意でもあり、勇気を奮って再提案することにした。

A案

B案

C案

1/5モデルの展示

 

―― 採択結果に反抗し再提案

再提案のために急遽作成した1/5モデルは、意気込みが強いだけに満足の行く出来映えだった。特にファストバックのD案はフェラーリを連想させるし、E案は車体の後端を大胆にカットしたコーダトロンカスタイルで目を惹いた。当時我々の情報源はイタリアの雑誌『STYLE AUTO』で、フェラーリ250GTやアルファロメオのカングーロ、ランボルギーニの350GTなど、最新のスポーツカーの写真に目を奪われていたのだ。しかしいまにして思うと、この時代の我々はデザイナーとしては後追いの姿勢であり、まだまだ未熟だった気がする。

D案

E案

―― 時代のヒーロー

さて、ここで話はちょっと横道にそれる。この仕事が始まる直前の1964年5月の第2回日本グランプリで、コルト1000はクラス優勝を果たしたのだが、そこではポルシェ904とプリンス・スカイラインGTの一騎打ちが、後に語り継がれる歴史的な出来事となった。この頃から日本国内でモータースポーツが広く知られる様になり、スポーツカーは時代のヒーローとなっていく。そうした背景の中で、1960年代は各社がこぞってスポーツカーを発売した時代だった。1962年にダットサン・フェアレディとプリンス・スカイライン・スポーツが登場した後、1969年までの間に、ホンダS600/S800、トヨタスポーツ800、日産シルビア、マツダ・コスモスポーツ、トヨタ2000GT、イスズ117クーペ、日産フェアレディZと、続々とスポーツカーが誕生していくのである。我々のスポーツカーの開発は、そんな時代の真っ只中にあった。

第2回日本グランプリに出場したコルト1000

ダットサン フェアレディ / トヨタスポーツ800 / 日産シルビア

ホンダS800 / マツダ コスモスポーツ / トヨタ2000GT

いすゞ117クーペ / 日産フェアレディZ
画像提供:トヨタ博物館

―― デザインの方向付け

話を元に戻そう。1965年5月のある日、東京本社から来られた常務に再提案の進言をした。私のこわばった顔を見ながら拍子抜けするくらい笑顔の常務だったが、結果はノー。今までのデザインで良し、ということが確認されるに留まった。つまり我々が主張するようなアグレッシブなものでなく、上品にまとめたいとの方針だった。もろもろの悩みがふっきれたとは言えないまでも、何故かさっぱりした気持ちだった。「三橋君、おとなしいスタイルだが、これくらいで良いと思っている」デザイナーの熱意は分かってくれた。「レベルは高いし、追求の方向性も正しい。しかしC案でも当社としては斬新だよ」目と目を合わせて会社のポリシーを説明してくれた。近寄り難かった久保常務が身近に思えた。

久保常務が選んだC案モデル

コンパクトな本格的スポーツカーレイアウト

クレイモデル製作

 

―― 硬派のインテリアデザイン

エクステリアの方向が固まり仕上げの段階へと進むなか、インテリアは渡部晃也さんが中心となってデザインをまとめた。計器盤のデザインは、平らなパネルの上にメーターやスイッチ類を配置し、それを大きな弧を描くメーターフードで覆った極めて明快なデザインで、まるで昔の戦闘機の様な機能に徹した雰囲気が漂っていた。この硬派のデザインは、物事を論理的かつ科学的に考える渡部さんならではのものだと私は感心した。

インテリアモデルの製作(左) 渡部晃也氏のスケッチ(右)

計器盤周り

シート

 

―― ついに完成

スタートして約8ケ月後の1965年6月、「COLT SPORTS」と銘打ったフルサイズモデルでデザインは無事承認された。「スタジオ日誌」の最後の当番は線図担当の長谷川利男さんだったが、結びに一言こう書いている。「皆さん良く頑張りました。カンパイしよう」お互いに労をねぎらうため、ささやかな打ち上げの会を開き、大きな声で乾杯をした。私は、このコルトスポーツが東京モーターショーで注目を集め、さらには日本グランプリで他社のスポーツカーと競う姿を思わず想像した。


クレイモデル作業

 

最終に近い段階のクレイモデル

風洞試験(左)    車名を記したプレートの装着(右)

―― 突然の中止に茫然自失

しかし、その年の暮れのある日、突然このプロジェクトが中止になったことを知らされた。開発取りまとめ役の掘之内係長が、わざわざスタジオに来られ、沈痛な面持ちで中止の理由を説明された。それは社会情勢の変化で、確かにその年は戦後最大の不況といわれていたのだ。その後しばらく私は虚脱状態に陥った。会社に行くのがいやになり、しばらく出社拒否を続けた記憶もあるのだが、この辺りは日誌にも記録されていないので定かではない。

コルトスポーツが消え去った翌年の1966年第3回日本グランプリに、三菱はコルト1000のエンジンをレース用にチューンしたエンジン搭載のフォーミュラカー、コルトF3Aで出場。エグジビションレースで名門のブラバムやロータスを抑えて勝利した。私は、このエンジンがコルトスポーツに載っていたかも知れないと、感慨に耽ってしまうのだった。

コルトF3A

画像提供:ギャランGTOネットワーク


―― それから30年後

私が本社に転勤後、岡崎のスタジオを訪れたとき、若いデザイナーの席に、どこで見つけたのかコルトスポーツの写真が貼ってあるのを見つけた。「結構いいですよ、今見ても」かなり気に入っている様子である。「どうしてこれを出さなかったんでしょうね。もしこれが出ていたら、三菱のイメージはもっと上がっていたと思うんですけどね」私はちょっと戸惑ったが、このように答えた。「クルマのように莫大な投資が必要な製品は、綿密な計画の基に慎重な判断が求められる。スタイルが良いとか、性能が優れているといった事だけで生産化に踏み切れるものでもない。この時も不景気という社会の状況が中止の理由に挙げられていたが、採算や販売力など、自分たちの実力を見極めての判断だったと思う。当時は中止と聞いて上司に嘆きや恨みつらみを言って困らせていたけど、今ではこのプロジェクトで沢山の経験をさせてもらえたことに感謝している」彼はそんなものかという顔で黙って聞いていた。

コルトスポーツ フロント

 

コルトスポーツ リヤ

 

―― そしていま

いま振り返ると、コルトスポーツは当時自動車事業部長の久保さん自身が主導して始まったプロジェクトだったのではないかと思う。というのは、三菱重工という巨大な組織の中にあって、久保さんはクルマを単に商売のための製品ではなく、人が愛する対象としても捉えていた数少ない人だったからだ。その久保さんを以てしても、スポーツカーという当たり外れの大きいプロジェクトを、重工という環境の中ではやり遂げることの出来ない巡り合せだったのだと、私は理解している。

 

2023年1月6日