アメリカンスタイルのヒップアップクーペ

三橋 慎一

1960年代に入って、アメリカでは「ポニーカー」と呼ばれるジャンルが誕生する。若者や女性をターゲットにした安価でコンパクトなクーペで、ロングノーズ、ショートデッキのスポーティなデザインが人気を博していた。先鞭をつけたのはフォードマスタング。続いてGMのシボレーカマロ、クライスラーもダッジチャレンジャーで追随していた。

1960年代にアメリカで歴史的大ヒットとなったフォード・マスタング

―― ファストバッククーペの提案

当時アメリカに留学中だった上砂公昭(かみさご ひろあき)君は1968年に帰国後、いずれ日本にもこの波が押し寄せて来ると力説し、コルトギャランのバリエーションとして、スポーティなファストバックのデザインを提案した。しかし既に同じ2ドアのハードトップが開発中であり、彼の提案は採用されなかった。それでも上砂君はあきらめずにデザインの模索を続けた。

テープ図面を描く上砂公昭氏

エレガントなデザインの初期クレイモデル

初期のデザインは、流麗なファストバックのクーペで、まだダックテールはなく、エレガントなヨーロッパ調のイメージであった。しかし、恐らく彼は、これでは特徴付けが足りないと感じたのであろう。思い切ってデザインを一からやり直し、よりホットなイメージを追求した。そこで生まれたのが、それまでの量産スポーツクーペにはない、ダックテールを特徴とするダイナミックなスタイルだった。フロントはクロームメッキのセンターグリルと、丸4灯ヘッドランプを組み合わせた力強い顔つきとし、リヤもフロントに合わせて、メッキを施した4灯のテールランプでバランスをとった。

フロントとリアのアイデアスケッチ

完成したモデルは1969年5月の重役視察の折、牧田常務(天皇と呼ばれた豪傑で翌年重工社長に就任)の眼に留まり、試作車(ショーカー)を作って東京モーターショーに出品し、反響を確かめようということになった。

モデルの計画図面作業(左)ダックテールを検討中のクレイモデル(右)


初期のデザインから大きく見直されたモデル

―― ショーカーGTX-1の成功

第16回東京モーターショー(1969)にコルトギャランGTX-1の名前で展示されたショーカーは、我々が予想した通り大好評だった。センターグリルの精悍なフロントマスク、揚力と抵抗をバランスさせた空力処理のダックテールが売り物で、太いサイドストライプがそれを強調していた。のちにGTOの代名詞で、宣伝文句となった「ヒップアップクーペ」の面目躍如だった。

コルトギャランGTX-1

ギャランGTX-1 リヤ


―― 風洞試験の成果

ひるがえって、この「ヒップアップ」は、風洞から生まれた言葉だと言って良かった。他社が自前の風洞をまだ持っていなかった時代に、我々はすぐ近くにある名航(名古屋航空機製作所)の風洞を利用出来ることは、とてもありがたいことだった。航空機の試験の合間に1/5スケールモデルを運び込んで、空気の流れなどを観察するのだが、名航の技師さんは、私たちに分かりやすく教えてくれた。数値データよりも流れの可視化が大切だというので、赤く塗装した模型に酸化チタンの白い液を塗り、流れの模様を観察するオイルフロー法や、表面に貼った気流糸の動きによって空気の流れや乱れを観察する気流糸法を教わった。

名古屋航空機製作所での風洞試験

車体にクレイを盛ったり削ったりして、試験を繰り返したが、車体の後端は丸くなだらかな形状よりも、鋭角にカットする方が空気抵抗が少なく、揚力も抑えられるというので、「ダックテール(アヒルの尾)」の形が生まれたというわけである。毛糸を短く切ったり、それをセロハンテープで貼るのは我々の仕事だったが、技師さんからはすっかりうまくなったね、と誉められた。


―― エンジニア達のバックアップ

風洞試験の結果「ダックテール」はモデルに反映されることになったが、そこには難関が待ち受けていた。ボディ設計や生産技術のエンジニア達はこの形状を見て驚き、難色を示したのである。リヤリッド後端は凹面に凸面が組み合わさった鞍形(くらがた)で、プレス成形の難易度がかなり高かった。またリヤクォーターパネル後端のシャープな形状は、全く成形困難に見えた。角を丸くするといった妥協案も示されたが、上砂君はここがデザインのポイントであり、妥協はできないと強い語調で彼らに対抗した。彼は普段は物静かだが芯はしっかりしており、ここぞという時にはきっぱり主張する。そこでエンジニア達は、リヤクォーターパネルを2分割し、各々プレスされた鈑金を現場で溶接した後、ハンダを盛り、最後にグラインダーで仕上げるといった手間のかかる方法で解決した。そこまでしても、彼らがデザインの実現に向けてやる気になったのは、上砂君の言葉に押されたというよりは、モデル自身が訴えるオーラに押されたようなものだった。「ヒップアップ」の魅力に最初に惹き付けられたのは、エンジニア達だったのである。

ギャランGTOリヤ「


―― クライスラーの助言

1969年、三菱重工はそれまでのいすゞ自動車との業務提携を解消し、クライスラー社との合弁事業を進めようとしていた。まずは北米で、コルトギャランをダッジコルトの名で販売することが決まり、デトロイトのデザイン部門からもスタッフがやって来た。彼らは既にデザインが決定し生産準備に入っていたGTX-1を見て、サイドウインドウのガラスを50インチRにしてはどうかと提案した。たしかに曲率を小さくすれば、ルーフの幅が狭くなり、グリーンハウス(キャビン部)が小さくなってスポーツカーらしくなる。急遽ベルトラインから上部を変更することにした。日本で初めての50インチRの採用によって、タンブルホームの強いスポーティなスタイルが完成した。その後は一気に開発を速め、GTOという正式名称で第17回東京モーターショーに発表出来たのである。「ケニアオレンジ」に塗られたヒップアップクーペの勇姿は、多くの観衆を魅了した。

サイドガラスを50インチに変更したモデル(左側)とGTX-1(右側)との比較

ギャランGTO

GTOトリノショー

1970年トリノショー

―― 本場トリノショーに出品

さてGTOは、東京モーターショーのあと、1970年11月に販売を開始するとデザインの評価は高まり、イタリアのトリノショーへ出品しようということになった。当時イタリアは、乗用車の輸入を禁止していたにも拘らず、三菱が出品に踏み切ったのは、カーデザインの本場トリノでデザインを問う自信の表れだった。ジュジャーロ氏を始め、現地のデザイナーや有識者に意見聴取することも忘れなかった。しかし残念ながら芳しい評価は得られなかった。エクステリア、インテリア、カラーとも、彼らの嫌いなアメリカ車の亜流と見なされた。いわば場違いだったのである。


―― 熱心なファンクラブの活動

一方、日本市場では爆発的な人気だった。日本の「2ドアスペシャルティカー」はGTOやセリカがつくったジャンルだが、GTOはファストバックのアメリカンスタイルで、その人気は長く続いている。愛車として大切に保有されている根強いファンが同士として集まり、熱心なファンクラブの活動をされているのを見ると、頭が下がる思いなのだ。「GTOネットワーク」は毎年秋に全国からクルマと人が一堂に会し、イベントを開催している。40周年の2010年には岡崎で開催され、デザインした上砂君はGTOの前で開発時の思い出話を披露し、たくさんの人が聴き入ったと聞いている。関係者の弁によると、2020年秋には、50周年記念のイベントを盛大に行う予定だったが、中止せざるを得なかったのは残念だったとのこと。
さらに残念なのは、上砂君が50周年の翌年1月に亡くなったことで、ここに謹んで追悼の意を捧げたい。

ギャランGTOと上砂公昭氏

2022年3月



苦心のコクピット計器盤

岡本 治男


―― 「コクピット」という言葉

ギャランGTOはギャランシリーズの派生車ではあったが、インテリアはより強い特徴を出すために一新する計画であった。初めは、第一次のエクステリアモデルに合わせたヨーロッパ調のエレガントな計器盤で進めていた。そんな中、久保常務が米国から「コクピット」という言葉を持ち帰った。我々は、新鮮さを感じたこの言葉を基に新たな案に着手した。しかし漠然とした言葉だけなので、その具体化には四苦八苦していた。そんな時、実際に飛行機を見に行ってはどうかという意見が出た。当時は新三菱重工業の時代であり、「飛行機なら社内にいくらでもあるではないか」と言うことになり、話はとんとん拍子に進み、小牧工場へ行くことになった。小牧では戦闘機をつぶさに見学することができ、多くの刺激を持ち帰った。一方で、アメリカでの留学からか帰国した上砂さんからは、米国で言うコックピットとはこの様なものだと、持ち帰ったスケッチ等により情報を得ることが出来た。

最初のインテリアモデルはヨーロッパ調のエレガントなデザインで、且つハッチバックであった。


新たにコクピットイメージを目指した壁一面のアイデアスケッチ

―― 注目を集めたショーカー「GTX-1」

これらを基に再度デザインを進め、複数の計器盤デザイン案の中から最もドライバー中心の計器レイアウトである案が採用となった。それを基にして松岡紘一郎さんが担当となってデザインを具体化し、1969年の東京モーターショーでギャランGTX―1として一般に公開されたのである。 ショー会場では、2台の展示車の内1台は、この計器盤が良く見える様にドアを開いた状態で高い位置に展示された。この展示は、大きく湾曲したメーターフードと6個のメーター(生産車では8個)がドライバーを包み込む雰囲気が強調されており、ドライバー重視のデザインが来場者の注目を集めた。今までにないスポーティーイメージのこの計器盤は、外観デザインとともに大好評を博した。しかし、ショーカーゆえに生産化のめどは全く立っておらず、その後生産移行のために悪戦苦闘することとなるのである。

メーター類の配置を検討中のモデル(左)計器盤モデルの取付けをする松岡氏(右)


GTX-1の計器盤

―― 量産化への道筋

 量産化のデザインは、私と猪飼 昇さんが担当することとなった。発売は、わずか1年後であり大変厳しいものだった。デザインを始めるにあたって次のような目標が設定された。
  ・全てのメーター類をドライバーに向ける
  ・メーターからセンターコンソールそしてシフト周りまでを一体成型とする
  ・考えうる必要なゲージを出来るだけ多く搭載する
  ・無反射メーター、コラプシブルハンドル、マルチユースレバーを成立させる
  ・フロントガラスを拭くため手が入るスペースを計器盤上面にとる
  ・量産可能な部品構成をとる

初めにテープ図面でドライバー視線からのラフな検討を行い、続いてモデル図に着手。図面はドライバーの視線基準と計器盤の成型条件を主な要件として形状を設定した。細部の形状は作図をしながら決めていった。並行して設計へつなげるための三面図を作成し、テープ図面の仮設定を確認すると同時に設計検討結果もその都度盛り込んだ。デザインの検討が進むにつれて設計、生産部門を含む多人数での会議が頻繁に開催された。喧々諤諤の会議ではあったが、各部門の知恵と「ねばならない意識」と「努力」が量産化への道筋を見いだした。


―― 「コクピット」のイメージ作り

この計器盤デザインの最大の特徴である、全てのメーターやゲージをドライバー視線に向けるというのは、「言うは易く行うは難し」なのである。それは、計器盤の型抜き方向とドライバー視線は両サイドに行くに従ってズレが生じて来るので、単純に視線と型抜きを満足させると外側のゲージは非常に小さな径しかとれない。これは最終的には、無反射ガラスまでを型抜きで形を決め、この穴からドライバーが見える最大のゲージを置き、ガラスからゲージまでの間に生じるズレはそのままで割り切り、後は黒の艶消し塗装で見栄えに問題ない事を確認して解決した。

また、コックピット感を出す上で難しかったのは、メーターフード中央のせり出しの形状である。目線に向かってせり出してもコックピット感がでない、あまり下向きにするとコックピット感はでるが垂れ下がって迫力に欠ける。成型条件やゲージのレイアウトをチェックしながら試行錯誤を繰り返した。計器盤から一体感をもって連続するフロアコンソールのデザインは、この時点では設計上満足できるものにはなっていなかったが、その後、設計者が中心となってデザインイメージを満足させながら形状をまとめてくれたのは、大変ありがたかった。

ほぼ最終デザインの計器盤モデル

この他、ルームランプとウォーニングランプを組み込んだオーバーヘッドコンソールも、コックピット感の演出として今までにない特徴とした。GTX-1で好評だったレーシングタイプのハイバックシートは、ほぼそのまま量産につなげることが出来た。一方、ショーで展示効果の高かった座面回転シートは、強度や重量の点から取りやめ止めとなったが、これは止むを得ないであろう。また、グリップハンドルの付いた立体感のある大型ドアアームレストでスポーティな雰囲気を加えた。こうして、スペシャルティカーとして考えられる様々な要素を三菱車として初めて装備したインテリアが出来上がった。

オーバーヘッドコンソールのアイデアスケッチ(左)オーバヘッドコンソールのモデル(右)

―― 長く続いた高評価

ギャランGTOは、2度のマイナーチェンジを受けて1977年まで7年の長期に亘り販売され続けたが、インテリアは終始評判が良く、フロントシートに若干の変更が加えられた他は大きな変更も必要とされなかった。特に生産の後半では、「この計器盤のおかげでまだ売れ続けている」とまでいわれたものである。

ギャランGTOインパネ

2021年10月