ファストバックとノッチバックの融合
青木 秀敏
ラムダのデザイン開発のキーデザイナーは貝淵龍さんであるが、残念ながら物故者のため、当時この車のデザイン開発チームの一員であった私が代わって記述を進める。当時はアシスタントデザイナーの立場だったので、記憶が部分的で全体像を伝えきれないことが懸念されるがご容赦いただきたい。
―― ノーズ共用かフルスキンチェンジか、ファストバックかノッチバックか
ラムダは、シグマのデザイン開発がそろそろ終わる1974年頃、シグマのバリエーションとして開発がスタートした。当初は初代、2代目のギャランハードトップがそうであったように、ベース車(シグマ)のノーズ共用を前提に進められていた。しかしギャラン2世代を跨いで販売されていた人気車種ギャランGTOの後継車をどうするかの議論も同時に行われていた。
そうした中、デザイン部門はスケッチや1/1テープドローイングなど、様々な検討を進めていたが、とりあえずノーズ共用案を先行してクレイモデル化していた。これには2案あり、1案はGTOの後継車を意識したスポーティなファストバック、もう1案はギャランハードトップの後継車としてラグジュアリーイメージを強調したノッチバックであった。
モデルを作り始めてしばらくたってから、GTOの後継車として、フルスキンチェンジ案もモデル化する必要があるとの判断になったと思う。これもファストバックかノッチバックかの議論はあったはずだが、順当に(?)GTOに準じたファストバックのモデルになった。この案は、北米で登場間もないSAE規格の角型4灯ヘッドランプにしようという話になったが、規格は判明していたものの、誰も実物を見たことはなかった。モデル初期段階では、フロントグリルは1/1レンダリングで表現することが多かったが、このヘッドランプもレンダリングで表現したのであった。
都合3案をモデル化し、方向付けの会議に臨んだのであるが、「デザイン重視」の姿勢が鮮明であった久保社長は当然のようにフルスキンチェンジ案に興味を示した。しかしこの時点ではどの案にも魅力を感じなかったようで「まだまだだな」と、方向付けには至らなかったのである。
―― ファストバックにもノッチバックにも見えるデザイン
フルスキンチェンジで進める方向が濃厚になったとは言え、デザイン承認されたわけではなく仕切り直しとなった。社長はノッチバックにはあまり興味がないようであったが、依然としてファストバックか、ノッチバックか、共用かフルスキンチェンジか、という課題は燻っていた。そんななか、当時の意匠課長、二村正孝さんがシグマの作業が一段落した貝淵さんに「ファストバックにもノッチバックにも見えるカタチを作ってくれ」とオーダーした。貝淵さんは、雨の日はスタジオにゴム長を履いて現れ、暑ければランニングシャツ1枚で仕事をする、いわゆる「デザイナー」という言葉から連想されるスマートさとは無縁の飄々とした人物であった。しかし、こと車のデザインに関しては独自の感性と大胆さがあり、「ここぞ」という時に手腕を発揮する頼りになる存在だった。
彼は、簡単なスケッチを描くと直ぐモデルに移行するのが常で、きれいなスケッチを描くことにはほとんど関心が無かった。どうしてもプレゼンテーション用のスケッチが必要な場合、たとえ私が他のチームに居たとしても、ランチを奢ることを餌にして「これを描いてくれと」頼んでくる。そうしてスケッチを代筆(?)した事が何度かあった。職制などにはかまわず行動するユニークな人だったが、上司を含み誰にも咎められることがない自由な雰囲気の職場でもあった。
さて話を戻そう。二村さんの一言がブレイクスルーとなり、貝淵さんが創り出したのがガラス部分でセミファストバック、ロールバーイメージのCピラー部分でノッチバックを想起させる処理であった。このフルスキンチェンジ案は国産乗用車ではトヨペット・コロナとコニー・グッピーしか前例がなかったスラントノーズを採用し、ヘッドランプは異形角2灯(後のリファインでSAE角4灯化)で、グリル中央部にはボディカラーの鼻筋を通した、斬新でスペシャル感あふれるスタイリングだった。
しかしこれ以外にも、リヤウインドウをよりノッチバック的な処理とし、ノーズ部分は当時一般的であった丸4灯のアップライト(前傾)ノーズとしたモデルや、ノーズをシグマと共用したモデルの発展型も製作され、最終的に社長の判断を仰ぐことになった。その結果が、皆さんよく存知のラムダである。2代目デリカ、2代目デボネア等のキーデザイナーとなり、その他の様々な車種においても重要な役割を果たし、多くのメンバーから一目置かれていた貝淵さんだったが、ラムダは彼の最高傑作だったと思う。
―― 常務、旭ガラスに交渉に赴く
リヤウインドウは、ガラスで一体成型されているのが理想であるのは言うまでもないが、当初はコーナー部にブラックアウトしたピラーのある3分割構造としていた。当時の技術レベルではとても無理であろうという考えからであった。しかし久保社長の特命だったのだろうか、開発本部長の持田常務は、旭硝子(現在のAGC株式会社)の懇意の方にクレイモデルの写真を持参し、これを何とか実現して欲しいと頼み込んだ。その結果、あの特徴的なラップアラウンドのリヤウインドウが可能となったのであった。この様なリヤウインドウは、マツダのコスモスポーツに先例があったものの、ラムダの折り曲げ部分のRははるかに小さく、これは国産車では新しい技術であった。最終的に折り曲げ部のRは当初のモデルよりは多少大きくしなければならなかったとは言え、持田常務の交渉力に感謝したものである。旭硝子は高額の設備投資を行うことになったはずだが、ラムダが先駆けとなり、曲げガラスのデザインは国産車に広まり、さらにはその後シャープベンドガラスへと発展して行った。この他にラムダでは、SAE角型4灯ランプの採用、1本スポークのステアリング、後にスーパーツーリング仕様に装着されたアルミ一体成型のロールバーガーニッシュなど、国内初の特徴を備えていた。当時はデザイン部門だけでなく、取引先までも含んで全体的に進取の気性があったように思う。ロールバーガーニッシュは、担当デザイナーは3分割を覚悟していたのであるが、生産委託先から「いや、一体でやります」との回答を得たという話を聞いて驚かされたものである。
―― 鼻筋無くなる
デザイン開発も終盤に近付いたところで、当時新しく設立されることになったカープラザ店と既存の販売店での併売が決まったことと、クライスラーからの要望が重なり、フロントグリルとリヤコンビランプを、それぞれ2種類作ることとなった。このためグリル中央に設けられたボディカラーの鼻筋部分が特徴的であるがゆえに邪魔となり、取り去ることになってしまった。これはまことに残念であったが、販売施策上はやむを得ないことであった。
―― 雑誌のスクープ
発売まで後数ケ月という頃、忘れもしない、ある雑誌になんとラムダの写真入りスクープ記事が出てしまった。それも、厳重に管理されていて漏洩するはずのないデザイン検討用モデルの写真で、モノクロではあったが見開きで大きく掲載されており、社内は大騒ぎとなった。開発初期の鼻筋が通ったモデルの写真であったことを今でもハッキリ覚えている。その時色々な憶測が飛び交ったが、結局真相は今もって闇の中である。
――北米市場について
ラムダは、1976年にギャランGTOに代わるスペシャリティカーとして発売後、他車にない特徴を持ったデザインで非常に人気があった。しかし、国内より人気があったのは北米市場で、1978年からクライスラーのダッジ・チャレンジャー、プリマス・サッポロとして、大いに売上を伸ばした。
当時クライスラーは、石油ショックの影響で深刻な経営難に陥っていた最中である。ガスガズラー(gas-guzzler)と呼ばれる大型車中心のクライスラーは、1971年に始まった三菱との資本提携で、市場が求める低燃費の三菱車を販売して経営を維持して来た。その一方で三菱にとっては、他の日本車メーカーと同様に、北米市場は正にドル箱であり、クライスラー社は大切なパートナーであった。そうした状況の中で、チェレンジャーとサッポロは、アメリカ人にも受け入れられるデザインだったので、クライスラーにとっては売り易い車であったに違いない。デザイナーが果たした役割は大きなものであったと思う。
2022年3月
「ナイヤガラ瀑布」のインパネ
今田 信孝
ラムダは、国内ではギャランGTOの後継車で、米国では提携先のクライスラーで新たに販売される2ドアスペシャルティカーであった。この車は「スポーティで上質なラグジュアリー」が商品コンセプトであり、私たちのインテリアチームもこれをキーワードとしてデザインに取り掛かった。インパネデザインは、チームで描いた様々な提案スケッチの中から水平基調デザイン(A案)と、インパネからコンソールにかけて連続感のあるデザイン(B案)が選ばれてモデル化され、最終的には、スポーティで新規性があるという理由で、私が提案したB案が幸運にも選ばれた。
―― インパネに「ナイアガラ瀑布」をイメージ
このインパネは、ドライバー側にスポーツカーの証である6連メーターを備え、インパネ中央上部からフロアコンソールに至る空間に、直下する水の流れ「ナイアガラ瀑布」をイメージしたものであった。メーターからフロアコンソールまでを水の流れの如くつなげたダイナミックなL字型デザインによって、スポーティでスペシャルティなインテリアを目指した。
コンソールの中央部分は、「土地代が高い一等地」と呼ばれ、部品が密集する場所である。このインパネでは6連メーターにスペースを奢ったために、コンソールのレイアウトが特に難しくなり、装備設計課の嵯峨さんは、空調操作パネル、吹き出しグリル、オーディオ、灰皿などを収めるのに大変苦労することとなった。設計とデザインとの調整は大いに紛糾し、一時私は設計の要求を受け入れ、デザインの変更を覚悟したこともあった。しかし、最後は嵯峨さんの努力によって「ナイアガラ瀑布」のイメージが守られたことは、ありがたかった。また、ステアリングホイールは、国内初の一本スポークが採用され、このインパネとの組み合わせでスペシャルティな雰囲気が出来上がった。
―― 自動車大国アメリカへ
ラムダはクライスラーでの計画販売台数が大きなウエイトを占めていたことから、久保社長から「ラムダのインパネデザインについて、マッカダム(Richard MacAdam)副社長の考えを聞いてこい」とのオーダーが来た。そこで急遽1975年10月に、チームリーダーの釜池光夫さんと私と商品計画部長の石田道夫さんとでアメリカに出張することとなった。目的は、クライスラーのデザインスタジオで、先方のデザイナーと共同でこのインパネの改良案をデザインすることだった。デトロイトは早くも厳冬であった。車はバリバリに凍った道路を走り、ショッピングセンターの巨大駐車場では迷いそうになるなどし、不安と凍てつく寒さの中、思わずコートの襟を立てた。初めてのアメリカの街で、マスタング、コルベット、カマロ、チャレンジャーなど、アメリカを代表するスポーツカーを見る度に、私は何度も抑えようのない高揚感を覚えた。一方では、錆びたバンパーを引きずったおんぼろ車や小屋を載せたピックアップトラックなど、怪しげな車が混在する実情を目の当たりにして、日本とアメリカの車社会の違いに驚嘆するばかりだった。さて、プライベートな話はここまでにして、本題に話を戻そう。
―― クライスラーとの共同作業
クライスラーのスタジオでスケッチやテープドローイングなど、1週間ほどであったが、実務の共同作業をしたのは新しい試みであった。スタイリング部門のトップである、ブラウンリー(Bill Brownlie)さん のもとで、インターナショナルグループのピルキー(Harold Pilkey)さんと、そのスタッフ2名が担当だった。ピルキーさんは、よく冗談を言う親しみやすい人柄で、場を明るく楽しいものにしてくれたと同時に、我々の考えを良く聞き入れてくれた。最終日に開かれた合同会議で、マッカダム副社長によって、改良案が了承され、合わせて次のコメントがあった。「アメリカ人の生活は、車が中心になっており、車内で過ごす時間が長い。そのため、リラックスできる開放的なインテリアを好む」そこで、「インパネの突出量を極限まで減らす努力をしてほしい」とのことだった。我々は、マッカダムさんの要望を受けて、突出量を再検討することにはなったが、私はクライスラー側の承認が得られたことに安堵した。
帰国一番、久保社長に共同作業の報告を行い、両社のデザイン承認が得られた。岡崎に戻ると、嵯峨さんから「インパネの突出量を10mm縮めることが出来そうだ」との検討結果を聞いた。
―― 生産に向けて「匠の技」とのコラボ
インパネの生産化の検討に入り、表面は上質なイメージを狙って牛革調に仕上げることにした。当時、革張調に見せるために開発された「スラッシュモールド」工法が、一部の高級車に使われ始めており、その採算などを検討した結果、多少のコストアップは承知で採用することになった。発注先は、この技術に特化した小牧の三ツ星ベルトが選ばれた。
ここからは、高度な職人芸といわれる「匠の技」の出番である。私は当時、革の知識はほとんどなく、材料選びからマスターモデル完成まで全ての作業を、三ツ星ベルトの達人に頼ることになった。担当されたのは伊勢木さんで、高度な技能を買われ、定年を迎えた後も引き続きこの作業に従事しておられた。伊勢木さんは、過去に同様のインパネを手掛けた実績があり、容易にイメージを共有することが出来た。まずは多くの牛皮サンプルの中から気に入った素材を選ぶ。牛皮を張ったマスターモデルの表面に、実際にミシンで縫ったかの様に、糸を一目一目穴に刺して接着していく。熟練と時間を要する途方もない作業である。伊勢木さんは、作業の手を止めることなく、革材・加工法・自分の経歴などを熱心に話してくれた。気に入らない箇所があれば、蝋を盛り付けて彫刻する、根気と忍耐のいる作業が続いた。完成したマスターモデルは、緻密で素晴らしいもので、私は人間の手技の素晴らしさに感銘をうけた。その後、マスターモデルから反転した型の中に塩化ビニールを流し込み、パットの表皮が造られ、その内部にウレタンを注入して、インパネパッドの完成であった。
さらに、インパネと同様に、ドライバーが操作するステアリングホイールなどの部品がソフトな革張調に統一された。こうして出来上がったインテリアは、スポーティなコックピットを中心に、上質なラグジュアリー感があり、ラムダのイメージを引き立たせるものとなった。
―― 徹底したカラーコーディネイト
私自身はカラリング担当ではなかったものの、ラムダはカラーに特徴があったのでここで少し述べる事とする。カラリング開発では、三菱とクライスラーのカラリングスタッフは以前から交流があり、三菱にとっては、大市場であるアメリカのカラー情報は貴重だった。アメリカ車は、歴史的にボディカラーとインテリアカラーをコーディネイトするのが特徴で、そこが日本車との大きな違いであった。ラムダはクライスラーでの販売も重要であったため、彼らのニーズに合わせたカラーコーディネイトを国内向けにも展開。ボディカラー5色に対して、内装色はグレー、ベージュ、レッドの3色を組み合わせて、インパネから、ステアリングハンドル、ドアトリム、シート、シートベルト、カーペット、天井内張まで、全てをカラーコーディネイトした。これは国内では非常に新鮮で、オシャレであった。
―― 最後に
世の中が好景気の時代に、三菱は「スポーティ&ラグジュアリー」をうたい文句にしたラムダを発売し、企業イメージを高めることができた。この商品企画も良かったが、デザインではエクステリア、インテリアの両方で、アメリカを意識した「スポーティ&ラグジュアリー」の狙いをうまく表現することができたのではないかと感じている。今でも、ラムダのファンは多く、「今でも新車があれば欲しい車」、「元気のよかった時代の三菱車は最高」、「スタイリッシュでおしゃれ!」、「アメリカンなスタイリングと一本スポークのステアリングホイールがスタイリッシュ」等々の評価を聞いて嬉しくなる。私にとって、このプロジェクトを通じてのアメリカでのクライスラーとの共同作業、匠の技との出会いなどは大変貴重な経験であり、有意義で楽しい時間が過ごせたと思っている。さらに、このプロジェクトで、出会ったたくさんの仲間たちを、懐かしく想うと共に感謝している。
2021年11月
一本スポークステアリングホイール
大坪 春久
初代ラムダのステアリングホイールは、私がデザインに取り掛かる前から1本スポークの採用が前提だった。それは、1973年社長に就任した久保さんが、これからの新車には積極的に新技術を取り入れるとの宣言をされたことで、初期段階から1本スポークが計画されたためだったと記憶する。私は、これはとても新しくて面白いことだと思ってデザインを進めた。1本スポークのデザインは、「宇宙船」と称されたシトロエンDSに始まるものだが、その前衛的な外観デザインとうまく融合したものであった。それに対してラムダは、アメリカンテイストのお洒落なスポーティクーペであり、シトロエンDSのイメージのままではステアリングホイールだけがインテリア全体から浮いた印象となるかも知れず、そこをどうやってラムダのインパネに融合させるかが一番の課題であった。
このステアリングホイールを組み付けるコラムカバーはシグマと共用することが前提で、それは6角形断面であった。まずは、コラムカバーがそのまま伸びた連続性のある形状を考えた。とはいえ、単に前に垂れ下がったような印象にはしたくなかった。そこで、シンプルでシャープなフォルムを目指して何度も細かな修正を繰り返し、その結果インパネのデザインイメージにうまく調和させることができた。また、グリップ部分との接合部にシルバーのプレートをアクセントとしてあしらい、お洒落で引き締まった印象にまとめた。一本スポークは構造的に強度不足になり易いが、ベンダーの泉自動車のもとで度重なる強度試験が行われた結果、芯に補強材を追加することで解決した。
1本スポークの良さは何と言っても視認性の良さであり、メーターやコラムのレバー類が大変に確認しやすい。ただ自分としては、レバー類のデザインをシグマと共通ではなく、ステアリングホイールに合わせたものにしたかったのだが、部品共通化の壁でそこは諦めざるを得なかった。また、近年はグリップ部に両手を安定させるコブが付いたデザインが増えているが、当時は、そこに気付かなかったのは残念である。
多少の心残りはあるが、国内初の1本スポークのステアリングホイールのデザインに挑戦し、実現できたことは大変満足している。そして今でも三菱車ファン達からは、「初代ラムダのインテリアといえば1本スポークのステアリングホイールが特長的だったね」と言われるとやはり嬉しくなる。
2021年11月