ダイヤモンド・スター合弁事業/クライスラー案

 

ロジャー・ズリミック


―― “
ファン・トゥ・ドライブスポーティハッチバック

プリムス・レーザーは、当初G-24というコードネームで呼ばれていたのだが、クライスラーとしての狙いは、若々しくてスポーティなファン・トゥ・ドライブの2ドア・ハッチバックで新しい顧客層にアピールすることだった。 デザイン開発はミシガン州ハイランドパークのクライスラー本社のデザイン・スタジオとカリフォルニア州カールスバッドのパシフィカ・アドバンスド・スタジオで1984年8月に始まった。パシフィカスタジオでは、トム・トレモントの主導で発泡材のコンセプトモデルが作られた。 (後にこのモデルは1987年のダッジ・デイトナ199xコンセプトのベースとなる) その後、ハイランドパークのインターナショナル・スタジオで左右2案の”スプリット”モデルが作られ、片面はパシフィカのデザインがベースで、もう片面は私が担当したデザインだった。

―― デザインの方向性

この2つのデザインは、どちらもフロントからリアにかけての滑らかなシルエットを特徴とし、バンパーの段差を最小限に抑え、フロントガラスからルーフ、ルーフからバックライトへの折れを極力少なくすることで、当時一般的なボクシーなトレンドから抜け出したものだった。その結果、筋肉質でありながらもスリークでスポーティなスタイルを実現した。また、衝突安全基準を満たすため、フロントとリアのランプに独特な処理を施した。更には、当時のコンパクトカーとしては大径の16インチホイールをサイドガラス面より出来るだけ外側に押し出すことで、ロードハギングのスタンスを実現した。
パシフィカ案は、AピラーからCピラーにかけてのワンラインのグラフィックがハッチバックのイメージを際立たせていた。 一方私のデザインは、キャノピー・ルーフを持つもので、ハッチバックではあるものの、短いデッキを持ったスポーティなコンパクトクーペ のようなデザインだった。 そしてこのクレイモデルは1984年10月に完成した。

左右2案のスプリットモデルと筆者

パシフィカ案は後にダッジ・デイトナ199Xコンセプトとなる

―― ハードモデルの製作

この”スプリット”クレイモデルはフランスのホーリッツ社に送られ、各々のデザインはスキャンされた後、CNC加工した発泡モデルにグラスファイバーのスキンが貼られ、アクリルウインドウの付いた2台のリアルなハードモデルとなった。 この時私はフランスに行って、この作業工程をチェックしたのだが、この製法は、それまで一般的だったクレイモデルを型取りしてハードモデルを作るやり方よりも新しかった。

ホーリッツ社で作られた発泡材ベースのFRPモデル

クライスラーで作られたFRPモデル

――デザインレビュー

2台のモデルは1985年1月に完成。 検討の結果、プランヴューがフラットなパシフィカモデルのフロント・ノーズを私のデザインと合体させた新しいモデルを作ることとなった。その後、私はそのモデルに「バスケット・ハンドル」と呼ばれるBピラー処理を追加して、よりスポーティなデザインに仕上げ、完成したモデルは、三菱自動車岡崎のデザインスタジオに送られた。岡崎では我々のクライスラー案、三菱・カリフォルニア・デザインスタジオのデイブ・オコンンネルの案、更に三菱岡崎デザインスタジオの江口倫郎の案の3つが勢ぞろいし、両社のトップ・マネジメント(三菱:館豊夫社長他/クライスラー:リー・アイアコッカ会長、ハル・スパーリック社長、トム・ゲイル デザインVP 他)によるミーティングが行われた。審査の結果、クライスラーと三菱カリフォルニアの提案が高く評価され、各々が次のステップへのゴーサインを得た。

クライスラー案

三菱/カリフォルニア案

三菱/岡崎案

トム・ゲイル氏 (左)  リー・アイアコッカ氏 (右)

―― 岡崎でのジョイントワーク

次のステップは、クライスラーと三菱が共通のプラットフォームをベースに各々独自のコンセプトデザインを実現化するステージだった。私はクライスラーチームの一員として、デザインディレクターのニール・ウォーリング、スタジオエンジニアのジム・ラグル、プロダクトプランナーのジョン・フェルナンデス、そして日本語を話せる若手デザイナーのダニエル・シムズらと共に日本に出張した。


―― 量産に向けて

1985年3月から4月にかけて、私たちは岡崎R&Dセンターのデザイン・スタジオで、三菱のカリフォルニアのデイブ・オコンネルらのチームと共に競作モデルの製作に取り組み、それぞれのチームは、新たな設計条件、生産技術条件のハードポイントを盛り込みながら各々のデザインリファイン進めた。 最初の1週間は、デザインモデルのデータをエンジニアリングパッケージに重ね合わせ、三菱のエンジニアと一緒に、エンジニアリング上の問題点を解決しながらデザインを進めるという作業がほとんどだった。

三菱のスタッフとの共同チーム

―― 知恵を絞ったフードバルジ

元々両案とも、低くてスリークなノーズであったが、 DOHC・16バルブ・ターボエンジンのタイミングベルトカバーは背が高く、 ボンネットをフラットにするとボンネット全体が高くなってしまい、スリークなノーズが損なわれてしまう。 そこで様々なスケッチを描いて検討した結果、このクルマのアイデンティティのひとつとなる特徴的なフードバルジが生まれた。 これによって、ベルトカバーの高さをクリアしながら力強い非対称のバルジでボンネットを低くスリークに保つことが出来たわけだ。

フードバルジの検討

―― ヘッドランプの検討

薄型ヘッドランプもデザインの大きな特徴であった。 我々は、当時標準の大きな角形シールドビームではなく、フロントコーナーにまで回り込んだ薄型のフラッシュエアロランプを提案していた。 その頃、小型の “クレジットカード ”ランプモジュールという新技術の情報があったからなのだが、生産に間に合うかどうかがリスクだった。そこで 並行して、パッシング用に薄い窓を備えたリトラクタブルヘッドランプを採用する案も検討され、最終的にはこれが採用となった。

”クレジットカード”モジュールとリトラクタブルのヘッドランプ検討

―― フラッシュバンパー

当時5マイルバンパーの条件をデザイン処理上できれいにまとめるのは非常に難しかったのだが、バンパーの上端を、フロントはボンネットまで、リヤは高い位置に配置したテールランプの下端までとすることで、バンパーの段付きを最小限にまとめることが出来た。



―― 三菱のユニークなモデル手法

この時のモデル製作期間は5~6週間と比較的短かかった。三菱はロフティングスタイル(図面を元にクレイを盛って作る)でモデルを作るが、我々の方は”フリーモデリング”が得意である。そこで、クライスラーからフリーモデリングの早さで定評のあるアル・モウリーを呼んでサポートしてもらうことにした。 我々にとって驚きだったのは、クレイ作業後の三菱の仕上げのやり方で、クレイモデルをスキャンしたデータからキャビンの木製骨格を作った上で、クレイモデルのキャビンを取り外してそれに置き換える。その後モデルをシーラーでコーティングし、塗装してハードモデルのような仕上げにし、最後にアクリルガラスをはめたシースルーモデルにするという手法で、これは非常に効果的なやり方であった。

完成したクレイモデルのキャビンの取り外し

―― デザイン承認

4月下旬頃、完成した三菱、クライスラーの両案を両社のトップマネジメントに報告した結果、クライスラーのデザインが最終的に選ばれ、両チームは外観の差別化と仕上げの作業に移行した。その後私たちはクライスラーに戻り、グレード毎のデザインやグラフィックに取り組み、三菱チームは日本で同様の作業を行った。1985年夏、プリムスレーザーの最終承認ハードモデルが完成し、経営陣の承認を得た。

最終的に選ばれたクライスラー案

―― エキサイティングなプログラム

このプロジェクトは私にとって大変にエキサイティングだった。 レーザーとエクリプスのジョイントベンチャーは、三菱とクライスラーの協力関係をまったく新しいレベルに引き上げ、ダイヤモンド・スター・モーターズ(以降DSM)の事業となった。DSMはイリノイ州ブルーミントンにある三菱とクライスラーの合弁工場で、派生車種のイーグル・タロンもここで生産されている。 クライスラーは、デザイン担当副社長トム・ゲイルのリーダーシップのもと、よりスマートでスポーティなプロポーションを持った新しい「キャブフォワード」デザインを提唱し、三菱は優れたエンジンとドライブトレイン技術と高い品質を提供した。 このジョイントベンチャーは、クライスラーのデザインと三菱の技術の「マリッジ」のようなもので、将来的に更なる製品を生み出す可能性を秘めたものだった。

―― 多くの “初めて “を経験したプロジェクト

レーザー/エクリプスのプロジェクトは、私を含めクライスラー・チームの多くにとって初めての日本への旅だった。週末には岡崎城公園や京都などの文化の中心地を訪れて楽しんだ。 一人で日本食レストランに行き、天ぷらの天つゆをスープと間違えたり、箸の使い方に苦労したりと、愉快な経験もした。 日本人は親切で思いやりがあり、日本での旅には楽しい思い出がたくさんある! 

―― プリムス・レーザー、三菱・エクリプスの市場評価

プリマス・レーザー、イーグル・タロン、三菱エクリプスは、DSMから生まれた最初の車であり、レーザーはプリマスブランドの高性能車として既存のダッジ・デイトナ・ターボZの姉妹車となった。 これらの車はクリーンで先進的なスタイリングと高性能な価値が高く評価され市場で好評を博した。また、このプロジェクトはクライスラーと三菱の新たな協力関係を象徴するものであり、その後も両社が多くのエキサイティングな車を生み出すきっかけとなった。

イーグル・タロン

2024年4月


アメリカ人を”ワオ!”と言わせるインテリア

 

今田 信孝

―― ミラージュのインテリアチーム

1984年当時、私は横山慎二チーフの下で3代目ミラージュのセダンとハッチバックのインテリアチームの取りまとめを任されていた。そこへ同じミラージュベースのスポーツクーペのインテリアデザインも追加で任されることとなったのだが、後にそれが初代エクリプス(以降エクリプス)になった。この車は、三菱とクライスラーが合弁でアメリカのイリノイ州に新設する工場で生産する計画で、開発は全て三菱が日本で行う予定だった。しかし、エクステリアについてクライスラー側は、彼らのデザイン提案をしたいと希望したので、両社でのデザインコンペをすることとなり、その一方でインテリアデザインは全て三菱に一任された。私は大熊栄一さんと共にこの仕事に取り組んだ。大熊さんはアメリカに新設されたサイプレススタジオから半年ほど前に帰任した中堅だったが、インテリアの仕事は初めてであった。一方私はそれまで20年近くインテリアを中心にたずさわり、初代ラムダのインテリアをデザインした時にはデトロイトに行ってクライスラーのデザイナーと関わったこともあった。

建設中のダイアモンド・スター・モーターズの工場

―― インテリアスタジオの「オヤカマ」

当時私たちのインテリアスタジオでは、アイデアに行き詰った時、呼びかけに応じて他のプロジェクトの担当者も可能な限り参加し、できるだけ幅広くアイデアを出し合うやり方をよくやっていた。これを私たちは「オヤカマ」と呼んでいて、それはやかましいほど意見を出し合うというところから来ているのだが、人の仕事に口を出すお節介の様である一方で、思いもつかないアイデアが生まれることが結構あるのだ。インテリアデザインは人間と関わる部分が多いので、知恵と工夫が物を言う仕事であることから、私は個人プレーにこだわらないこうしたやり方はクリエイティブだと考えて実践してきた。

―― 即席モデルでの試行錯誤

こうした環境の中で私たちはデザインの構想を練った。このプロジェクトは三菱にとって初めてアメリカで現地生産するという、相当大掛かりな事業であるから、これはぜひとも成功させたいのはもちろんだが、このインテリアはアメリカ人を”ワオ!”と言わせる様な新しいインパクトのあるものにしたいと思った。そこで、集中的に多くのアイデアを出すためにこれまでとは違うやり方で進めることにした。それは、落書きの様なスケッチからいきなり即席でモデルを作り、それを皆で「オヤカマ」で議論しながら検証し、先ずはざっくりしたデザインをまとめるという方法だ。通常なら形が把握できるまでにきれいなスケッチや図面で多くの時間を費やしてしまうが、それらを後回しにして、立体での操作性とデザインの集中検討を先にすることで、新しい発想を生み出そうと考えたわけだ。私たちは、使わなくなったインパネのモデルを利用し、その上にスチレンボードを継ぎ足して落書きスケッチを立体化して行った。

スチレンボードを継ぎ足して作った即席モデルの例

私は常々アメリカ車のインテリアは、個性豊かで迫力のある造形のエクステリアに比べ、良くも悪くも静的で、シンプルな中に加飾されたものだという印象を持っていた。しかし、インテリアは人が車を操縦する空間であるから、もっと有機的でダイナミックな方向があって良いと考えていて、アメリカ帰りの大熊さんも、彼がそれまでに描いたスケッチなどからイメージを共有していることが伝わってきた。

私たちはドライバーを中心にしたコクピットのイメージをスチレンボードで作り、「オヤカマ」連中の意見を聞きながら試行錯誤する内に、計器類、中央のエア吹き出し口、空調ダイヤルを扇状に連続させ、それがフロアコンソールへと繋がる形にこれまでにない新鮮さを感じた。それをリファインしていくとガッシリとした力強さが出てきて、これなら行けそうだと思った。

立体モデルで検討したデザインをまとめたスケッチ

さらに私は、ホットなスポーティカーにはドライバーがインテリアに深く沈み込んだ雰囲気が必要と考えていたが、それを実現するため、実験課のスタッフと共にフロアコンソールの高さの上限の検討を進めていた。丁度そのタイミングでサイプレススタジオのジェフ・ティーグさんから、GMが発売したばかりのポンティアック・フィエロのカタログが届いた。そこには「この高めのセンターコンソールにスポーツカーの雰囲気を感じた!参考にしてはどうか?」とのコメントが添えられていたのだ。私はこれを読んで大いに意を強くした。

1984年型 ポンティアック・フィエロ

―― サイプレススタジオからの提案

こうした作業を進めている中、1985年1月にサイプレススタジオに派遣されていた吉平浩さんが帰任しスタッフに加わった。彼は現地でエクリプスのインテリアのデザインをし、それをフルサイズレンダリングにまとめて持ち帰ってきた。その特徴はボクシーなメータークラスターをフローティングさせたもので、それをインテリアスタジオのメンバーでディスカッションしたが、まとまりの良さはあるものの、私たちが目指していた有機的な力強さが不足していると判断された。とはいえこれは彼にとって初めてのインテリアデザインであり、アメリカで良い経験をされたといえる。

吉平氏デザインのインテリア

―― ホットなイメージの追求

さて、その後私たちは初期段階のイメージを元に必要な技術条件を入れたモデルを作製した。このモデルで、フロアコンソールからパネルが鋭く立ち上がり、計器類へと扇状に続く特長的な塊と、その一段奥に控えるインパネ本体との立体感が確認できた。さらに、高めのフロアコンソールと短いシフトレバーでドライバーが沈み込む感じも確認。また、ステアリングホイールは3本アームの両肩に力こぶを付けたデザインにしたがインパネとの相性は悪くなかった。全体として、目指していた有機的で力強いイメージがある程度達成出来たと感じられた。

国内仕様もある前提で作った最初のインパネモデル

―― クライスラーのエクステリア三菱のインテリア

このインパネモデルの製作が進んでいる最中の3月に、クライスラーと三菱各々のエクステリアデザイン案が確認され、同時にそのプラットフォームはミラージュから一回り大きなギャランへと変更されることとなった。しかし製作途中のインパネモデルはそのままミラージュベースで完成させ、4月に両社から基本的な承認を得ることが出来た。この時、エクステリアはクライスラー案が最終的に選ばれたので、結果としてクライスラーのエクステリアと三菱のインテリアが1台の車になることになった。これはカーデザインとしてかなり珍しい事だと思うが、クライスラーのエクステリアはホットでダイナミックなデザインであり、これは私たちのインテリアとドンピシャだと思った。

その後最終承認へ向けて、ギャランをベースにしたレイアウトでデザインの詰めを行った。室内幅が広がったおかげで空調ダイヤル付近の幅を拡げることができて、インパネはより一層力強いイメージになった。

 

 

助手席側のパッドはソフトな革貼り風のテクスチャーにしてドライバー側との質感の違いを演出した。この独特の細かいシワ模様は最終的にはサプライヤーのイノアック社に出かけて担当者と一緒に量産用のマスター型を作ったもので、私にとって特に思い出深い。

こうしてインパネの最終デザインが出来上がり、6月に両社の幹部による承認を得た。その後、この車の主な市場であるアメリカでデザインのサーベイを行う事となり、それに合わせてインテリアモデルを製作した。その際現地市場の要求に応え、助手席のシートバックパネルを前倒しすると便利なトレイになる機能を持たせたり、荷物スペースを充実させるなどデザインの細部に気を配った。

 


―― アメリカでのコンシューマーサーベイ

1985年9月下旬、私はカリフォルニア州オークランドでエクリプスのデザインを競合車と比較するコンシューマーサーベイに出張した。マツダRX-7、ホンダ・プレリュード、ポンティアック・フィエロ、ダッジ・デイトナなどとの比較で、エクリプスのインテリアはスポーティーな雰囲気やインパネの新鮮さが好評であった。ドライバー志向の強さにネガティブな評価も一部あったが、これはこの車の性格付けとして問題ないと判断された。またこの調査に参加していたクライスラーの関係者から「インテリアデザインが大変気に入った!」とお褒めの言葉があり、このインテリアデザインにはアメリカ人の感覚に訴えるもの、つまり”ワオ!”があることをその時実感することができてうれしかった。



―― 終わりに

この原稿を書いている最中に、ネットの中古車情報で何台かのエクリプスを見つけた。ふと「この車が欲しい!乗りたい!」との衝動に駆られたが、私も免許返納を考える歳になったことを自覚して諦めた。これからは、エクリプスの写真を眺めながら共にスポーツカーの夢を求めた仲間たちを思い浮かべることにする。



2024年4月


 

カリフォルニアからのプロポーザル

 

デイビッド・オコンネル

 

―― 三菱のアメリカ・スタジオへの入社

3年半にわたるイギリスとフランスにおけるプジョー・シトロエン社での経験を経て、1984年の初め、私はカリフォルニア州サイプレスに新たにデザインスタジオを開設した三菱に入社しました。そこには中川多喜夫ゼネラルマネージャー、本多潔マネージャー、大熊栄一さんらがいて、さらに私が卒業したアートセンター・カレッジの学部長、キース・ティーター氏はそこのデザイン・コンサルタントでした。

その時私は、南カリフォルニアの新しいチーム、新しい会社の一員になれたことをものすごく嬉しく感じていました。なぜなら、私はロサンゼルスで育ちで、南カリフォルニアの日系企業に入社して、早朝にサーフィンをしてから一日中車のデザインをするというのがかねてからの目標で、それが私が目指すワークライフバランスだったからです。私はここで、フォードに5年間いたジェフ・ティーグと一緒になりました。ヨーロッパで経験を積んだ生粋の”カリフォルニアン”とビッグスリーの一つで鍛え上げたデトロイトの “凄腕”は、三菱にとって素晴らしい組み合わせといえます。

ジェフ・ティーグ氏(左)と筆者(右

―― 新型コンパクト・スポーツクーペのデザイン

初め私たちはフェイスリフトのスケッチプロジェクトをいくつかこなしたのですが、その後新しい2つのプロジェクトがやってきました。それはミラージュの後継車と、そのプラットフォームを使ったスポーツクーペです。私はこの時点では、このスポーツクーペは当時のコルディアのように米国に輸入されるものと思っていましたが、実はそうではないことを後に知ることになります。

私たちはこの2つの車のスケッチを山の様に描きまくった後、最後に、スポーツクーペは私のスケッチが選ばれ、ミラージュにはジェフのスケッチが選ばれました。私が担当したスポーツクーペはその後1/4モデルを経て1/1のシースルーモデルへと進み、1985年3月にモデルは日本へと送られました。私は初めて日本の岡崎へ出張して大きなデザイン会議に出席することになり、さらにここからこの話は(私にとって)非常に興味深い展開となるのです。

初期のコンセプトスケッチ

フルサイズレンダリングを描く筆者

完成したモデルとチームのメンバー

―― 思いもよらない展開

岡崎のデザインセンターに着いた時、展示スタジオには私たちサイプレススタジオのモデル、岡崎のモデル(江口倫郎さんデザイン)に加えて、クライスラーの赤く塗られた3番目のモデルがありました。「えー、クライスラー!?」私はまさか別の会社からのモデルがあるとは予期してなかったのでビックリしてショックを受けました。

検討会では3つのモデルを各々のスタジオのボスが説明し、サイプレスのモデルとクライスラーのモデルが選ばれ、次の段階へとデザインリファインに進むことになりました。私たちのモデルが選ばれたので私はとても興奮したのを憶えています。しかし、クライスラーが三菱の製品やデザインに関わるとは、それまで私は思ってもみませんでした。しばらくして、このプロジェクトはダイヤモンド・スター・モーターズという合弁会社でイリノイ州に新工場を建設し、両社の車を共同で生産するのだということを知ります。もしジェフや私が最初からこれが「共通」のデザインであることを知っていれば、また、三菱のデザインがクライスラーと直接”対決”することを知っていれば、もう少し違ったアプローチができたかもしれません。今にして思えば、なぜジェフもしくは私がこのプロジェクトの背景などを知らされていなかったのか、まったく理解できませんでした。当時私たちのスタジオでは、すべてはプロフェッショナルなかたちでうまくいっていたのですが、もしかしたらそこには何か三菱独特のやり方があったのかもしれません。

三菱岡崎のモデル

三菱サイプレスのモデル

クライスラーのモデル

―― 日本に滞在してデザインリファイン

2つのモデルのセレクションに続いて、次のリファインプロセスがすぐに始まりました。私は一旦アメリカに帰り、荷物を詰め直してまたすぐ岡崎に戻り、三菱自動車岡崎の素晴らしいデザイナーやエンジニアと約4~5週間にわたって一緒に生産に向けたモデルのデザインに取り組みました。クライスラーのデザインチームは、ロジャー・ズリメック、ダン・シムズとデザイン・エグゼクティブのニール・ウォーリングというメンバーです。その後、クレイモデリングが始まると、クライスラーの腕利きのスカルプターであるアル・モウリーが最終的なサーフェシングを行うためにやってきました。この段階でプラットフォームはミラージュから一回り大きなギャランに変更され、新たな挑戦が始まりました。大径ホイール、ワイドスタンス、ロングホイールベース、さらには高性能DOHCエンジンは、デザインに大きな恩恵となります。両デザインチームともに、元のデザインの魂と個性を失うことなく、一回り大きくデザインを変更するという 綿密な作業を進めました。


 

―― 日米のモデリングプロセスの違い

三菱に入って気が付いたのはモデリングの方法がアメリカとはかなり違うという事です。アメリカでは、デザイナーはテープドローイングからいくつかの断面をとり、それを元にモデラーはほぼフリーハンドで造形しますが、三菱ではデザイナーは詳細な1/1の3面図を100mmピッチで描き、モデラーはたくさんの断面を写し取ってモデルを機械的に造形するのです。これはまるでアナログのエイリアス(3Dソフトウエア)の様でした(笑い)。しかし、ジェフと私はサイプレススタジオでこの三菱のやり方を学ぶ一方で、日本から来たモデラー達にアメリカで一般的な”フリーハンド”のモデリングを紹介し、この2つのやり方を融合させることで、正確な寸法と美しい造形の仕上がりを両立させることができたのです。

80年代半ばのこの時期、車は角ばったフォルムから、角の取れた、よりソフトでオーガニックなフォルムに移行しつつありました。クライスラーと我々のデザインは、どちらもこの丸みを帯びた美しさを持っていたので、モデリングプロセスもそれに見合ったものである必要がありました。
こうしてデトロイトのデザイナーチームとカリフォルニアのデザイナーが、それぞれのモデルを作り上げ、デザインコンペに臨みました。

―― 苦心のフードバルジ

さて、私が一番好きな話は、エクリプスの特徴である左右非対称のボンネットバルジの話です。ある時私たちはエンジニアとの打ち合わせで、大きなテーブル上に置かれた1/1の巨大な図面を眺めていました。これはCAD以前の時代で、まだCatia(設計ソフトウエア)もVRもありません。そこへエンジニアの平賀さんがさらに別の図面を持って来て、デザイナーの群れを押しのけ、テーブルの上にその図面を広げました。その図面には、2つのモデルのボンネットの中心線(ほぼ同じ場所にあった)と、ボンネットの中心線から3インチほど上に赤い線が引いてありました。そして、「新しいDOHCカムシャフトカバーをクリアするには、ボンネットをここまで上げる必要がある」と言うのです。デザイナーは皆「どうしよう?」と目を丸くしました。そこで、1週間かけてありとあらゆる形や大きさのフードバルジやフェイクスクープをスケッチし、最終的に、この非対称のバルジがベストだと全員が合意しました。そしてこの特徴は後に引き継がれてこの車の象徴となったのです。なので3代目のエクリプスでは、皆から 「ヘイ、フードバルジはどこに行ったんだ?」と聞かれたものです。

フードバルジの検討

クレイモデルが完成し、ヘッドランプとテールランプのモデル製作、塗装、ウインドウの取り付けと、デザイン作業が完了。私は帰国してアパートのプランツに水をやり、スーツケースを詰め直し、再び最終プレゼンテーションのために日本へ飛んで帰りました。


三菱サイプレスモデルの最終デザイン

―― 最終デザインセレクション

1985年6月クライスラーと三菱本社のトップが岡崎に集まり、どちらのモデルを量産するか決めるるというのでデザインセンターの中は結構盛り上がっていました。ただ、残念なことに私はその会議に出席させてもらえませんでした。(おそらく私はただの”新米”デザイナーだったのです)しかし、会議の休憩時間にボスの中川さんがタバコを吸いに出てきて一言こういったのを鮮明に覚えています「not good」。あの瞬間は忘れられません。結論としては両案をある意味融合させることになりましたが、全体のテーマはクライスラー案で決まったのです。ロスへのフライトはシャンパンを飲むことも無く、窓の外を眺めながらウォークマン(覚えてる?)で「Live at the Fillmore East」を聴く長旅でした。そして家族や友人との再会を楽しみにして、ニューポートビーチでサーフィンして、次のデザインプロジェクトに向けて心をリセットしようと思ったのです。

―― 懐かしきコンパクトスポーツカーブーム

エクリプスと名付けられた三菱のモデルが誕生し発売されたのは、アメリカで輸入スポーティカーが非常に好調で、コンパクト・スポーツカー・ブームが起ころうとしていた時期でした。エクリプス、プリムス・レーザー、イーグル・タロンは基本こそ同じでしたが各々独自の特徴があり、このセグメントの市場を大きく広げたのです。
いま、当時のクールなスポーティカーはみな、実用的で判で押したようなSUVに取って代わられ、死滅しました。トヨタ・セリカ、日産200SX、マツダRX-7、いすゞピアッツァ、プリマス・レーザー、イーグル・タロン、ホンダ・プレリュード、フォード・プローブらはみな「ワイルドスピード」ジェネレエーションの若者文化を生み出した良き思い出です。エクリプスは常に限界を押し広げ、レトロでもなければ、伝統的なデザインに縛られることもありませんでした。

今思えば、デザイナーとして4世代にわたるエクリプスのデザイン開発に参加できたことは光栄でした。

80年代のクールなスポーティカーたち

三菱エクリプス

宮川芳晴氏のエクリプス イラストレーション

2024年4月


時代の変化

 

本多 潔

―― 日本車をぶっ壊す男たち

1980年頃のことだが、私はテレビのニュースで、アメリカの男たちが寄ってたかって日本車をハンマーでぶっ壊す映像が流れたこと良くおぼええている。これはインスタレーションなどではなく、アメリカの自動車工場をレイオフ(一時解雇)になった工員たちが憎らしい日本車に復讐している場面だった。1980年は、日本車の生産台数がそれまで自動車王国といわれたアメリカを抜いて世界第一位になった年であり、日本車はアメリカで飛ぶように売れていた。それは1970年代に始まる石油ショックのせいで原油価格が高騰し、豊かな国アメリカといえども燃費の悪いアメリカ車は売れなくなり、多くのアメリカ国民は低燃費で信頼性のある日本車に飛びついたからだ。その結果アメリカの自動車産業は大打撃を受け、先ずは労働者をレイオフして赤字を食い止めるしかなかった。この年、アメリカ自動車産業の労働者の約40%がレイオフとなり、ことはじつに深刻で、アメリカに対して大きな貿易黒字を続ける日本は悪者だとして何年にもわたって反日感情が高まっていった。

 

―― アメリカ現地生産のはじまり

この日米間の貿易摩擦問題の解決策としてアメリカは関税の引き上げ、輸入台数の制限、を行い、さらに日本車メーカーにアメリカに工場を作って現地生産することをに要求した。そこで1982年ホンダがオハイオ州でアコードの生産を始めたのを皮きりに、各社は次々とアメリカで現地生産を始めた。三菱はというと、1984年の初頭に独自にアメリカに工場を建設する計画を持っていた。三菱と関係の深かったリー・アイアコッカ会長率いるクライスラーは、当初それを静観していたのだが、その後共同でやろうと申し出たことから、両社は1984年末に合弁事業で合意し、イリノイ州にダイヤモンド・スター・モーターズを設立することになる。

その頃北米ではホンダCRXがセクレタリーたちに大人気であり、ミラージュをベースとしたスポーツクーペを投入する計画となった。しかし、その後の検討でミラージュでは工場の採算が悪いと判断され、一回り大きなギャランがベースとなった。アイアコッカと社長のハル・スパーリックは歴史的ヒット作フォード・マスタングの生みの親であり、もしかしたらこの時その再来を狙っていたのかも知れない。

アイアコッカ会長と館社長

―― アメリカのデザイン拠点

日本の自動車メーカーは、アメリカ現地生産を進めるのと前後して、こぞってアメリカにデザインスタジオを設立して行った。最高のお客様の地アメリカで現地ニーズを反映したデザインを作り出すことが必要になってきたわけで、その最初は1973年設立のトヨタのCALTY DESIGNだった。その後ホンダ、マツダ、日産、いすゞ、三菱、富士重工と続き、みなアメリカの若者文化を牽引する南カリフォルニアにスタジオを設立した。それは日本人デザイナーが駐在してアメリカを体験しながらデザインする場であると同時に、アメリカ在住のデザイナーが日本車をデザインするというそれまでにない新しい展開の始まりだった。

三菱は1984年にロサンゼルスの南に位置するサイプレスでスタジオの稼働を始めたが、そこで最初のアウトプットが3代目ミラージュと、ここで取り上げた初代エクリプスのデザインプロポーザルであった。

1984年当時のサイプレス・デザインスタジオ

―― 販売

エクリプス、プリムス・レーザー、イーグル・タロンの3車は1989年1月に発売され、北米市場で大ヒットした。当時特に求められていた燃費の良さだけでなく、高性能かつスタイリッシュなデザインが人々の心を掴んだといえる。調べたところ、この3車は5年間トータルで563,460台販売され、その内訳はエクリプスが302,547台、プリムス・レーザーが115,981台、イーグル・タロンが144,970台で、それは新しく工場を作ったことに十分見合うものだったと思われる。エクリプスは1990年から左ハンドルのまま日本に4,150台が逆輸入され、台数こそ少なかったがテレビドラマ「ゴリラ・警視庁捜査第8班」で美人刑事の愛車として登場し、ほんの少しだけ国内で知名度を上げた。

「ゴリラ・警視庁捜査第8班」に登場したエクリプス

―― グローバリゼーション

1980年代に日本の自動車産業がアメリカに大きく事業の幅を広げた中で、三菱とクライスラー社が手を組んだダイヤモンド・スター・モーターズは、見事なスタートを切った。この時三菱の様々な部門の社員が初めてアメリカへ渡り、クライスラーの人々や現地スタッフと仕事をするようになる。私自身もこの時、デザインスタジオの立ち上げと運営に関わり、初めて現地スタッフと英語で仕事をすることになり、それは自分にとって生活が一変した大きな出来事であった。今思えばその時グローバリゼーションが大きく進んでいたのだと思う。

2024年4月