ブレッツナー氏に学んだ米国流デザイン開発
本多 潔
スタートでの方向転換
新三菱重工は1960年に三菱500で乗用車市場への参入を果たし、引き続いてコルト600、ミニカ、コルト1000等を開発するが、その頃社内では「高級車を早急に開発するべきだ」という意見と、「高級車を設計、開発する実力はまだ不十分であり、生産体制、販売体制も未熟であり時期尚早だ」との意見で割れていた。そうしたなか、イタリアのフィアット2100を、技術提携してライセンス生産する話が三菱商事から持ち込まれ、その方向へと動き出し、1961年には通産省に技術提携の認可を申請するところまで行った。しかし通産省からは、同じ新三菱重工の別部門から、もう一件別の技術提携の申請があったことから、どちらか1件しか認可できないと言われた。そこでフィアットとの技術提携はあきらめ、高級車は自社開発する方向へと舵が切られた。
初代デボネア(以降、デボネア)の狙いはショーファードリブンカーとも言える内容で、新開発の直列6気筒、2リッター、ツインキャブレターのエンジンに、デュアルエキゾーストを装備したこのクラストップレベルの105馬力であり、高級内装の1仕様のみであった。同じ排気量ながらタクシー仕様も展開したクラウンやセドリックとは異なる性格である。当時、セドリックの車体をストレッチした同様の高級仕様車は既にあったが、専用の車体ではデボネアが国内初と言える。
その頃発売した三菱500のデザインは市場からの評価は低く、そもそも三菱の自動車デザインのノウハウそのものが、世界レベルに及んでいなかった。そこで、どうやってデザイン部門の梃入れをするかについて幹部の間で話し合われた。その結果、カリフォルニア工科大学に留学経験のある坪田技術部次長のつてで、ゼネラルモーターズ(以降、GM)に在職中のデザイナー、ハンス・ブレッツナー氏(Hans Bretzner)が同社を休職して日本の自動車メーカーでデザインコンサルタントとなることを希望しているという情報をつかみ、彼を招聘してデボネアのデザインを任せると同時に、そのデザイン手法を取り入れる事になった。 (来日前のハンス・ブレッツナー)
ハンス・ブレッツナー氏の貢献
さてここからは、当時入社したばかりで、ブレッツナー氏の仕事を横で見ていた三橋慎一さんの思い出を紹介する。
1961年に来日したハンスはドイツ系のアメリカ人で、当時30歳だった。受け入れに際して我々は、坪田次長、管理課の粟田さんらとともに高級なアパートを手配したり、当時としてはまだ一般的でない冷蔵庫を準備するなど、かなり念入りな準備を行った。デボネアのデザインはエクステリア、インテリアともに全てハンスに一任で進められたが、業務としての主担当は入社2年目の小林健作君で、ハンスを終始献身的にバックアップした。
ハンスの仕事でまず驚いたのはフルサイズのレンダリングだった。壁面にロール状のケント紙を延ばしてステイプラーで留め、チョーク(パステル)で描いてゆく。チョークで塗った後は、指の腹でこすってグラデーションを表現する。私もまねしてやってみたが、指紋が無くなり指先の感覚がしびれて麻痺したのを覚えている。彼のスケッチやレンダリングのテクニックは、さすがはGMのデザイナーと言えるもので、その表現力は見事であり、ハイライトレンダリングやベラム紙を使った技法などを、実演を通して教わった。
デザインのみならずモデリング作業も全て彼の陣頭指揮で行われた。ハンスはモデラーとしての経験もあり、彼の紹介でアメリカのシャバントクレイを輸入する事となった。これはそれまで使っていた国産品に比べて数段高価であったが、そのおかげでモデルの精度と作り易さは素晴らしく向上した。さらにはハンスの指導に基づいて、定盤、クレイオーブン、エクストゥルーダーをモデラーのリーダーである三矢恵正君が生産技術課や治工具課の協力を得て外部に発注した。モデル作業が佳境に入ると人手が足りなくなり、試作課からの応援を得た。さらにハンスの指導でダイノックシートやFRPなどの新たな作業が加わると、他部門からさらなる応援を得て、かつてない規模での作業となった。その後、応援に来て新しい技術を身に着けた人たちの一部は、意匠係に配属変えとなり、意匠係はぐんぐんと成長していった。
こうしてGMのデザイン開発技法が一気に導入される事になった。真面目で几帳面且つ職人肌のハンスは、私たちにとってこの上ないお手本であった。
彼がデボネアをデザインする中で特に苦労したのが、日本の小型車枠の全幅1700mmだった。サイドのデザインラインがリヤドアでキックアップする特徴的な部分が、この規制のために思う様にまとまらず、面処理に手を焼いていた。それで「これは天下の悪法だ」と何度となく聞かされた。それはアメリカ人デザイナーから見れば無理からぬことだ。しかしその苦労のおかげで、デボネアは他車に比べて同じ寸法に収まっているとは信じられないほど堂々としたサイズ感の車になった。ハンスの日常の足はメルセデス・ベンツで、彼はこの車をこよなく愛していた。フード先端のスリーポインテッドスターのエンブレムは、盗まれるというので、何時も外してポケットに入れていたのを覚えている。彼は、休日にはカメラを持って、お祭りなど日本の風俗をこまめに写真に撮っていた。それは趣味だと思っていたが、アメリカの然るべき機関に提供すると、高いお金がもらえるということだった。ちゃっかりした一面を見て、なるほどと感心したものだ。
デボネアのデザインが出来上がり、その試作車が完成した頃、彼は一時帰国して暫くぶりにGMのスタジオを訪問した。そこで最新モデルの傾向が大きく変わっているのを見て、帰国後デザインの変更を申し出た。フロントがそれまで縦4灯式であったのを横型4灯式に変えて完成したのが最終の姿である。後から思えば、このデザインはフォードの最高級車「リンカーン コンチネンタル」に似通ったところがかなりあった。これをデザインしたのは後のクライスラーデザインのボス、エルウッド・エンゲル(Elwood Engel)氏で、ハンスの親友だったと聞いて、妙に納得したものだ。
しかしそうは言っても、彼の努力でデボネアは素晴らしい仕上がりとなり、我々は何よりも最新のデザイン手法を手に入れることが出来た。三菱デザインがその後成長できたのは彼のおかげだと感謝している。ハンスは車名としてデボネア(Debonair)とマーキス(Marquis)の2案を提示し、最終的に社長がデボネアと決めたとのことだ。そのエンブレムも当然ながらハンスがデザインし、さらに自身の手描きスケッチを載せたカタログや東京モーターショーでの展示までデザインした。デボネアの全てにハンスの息がかかっていた。ハンスは人柄が良く面倒見の良い人物であった。ある時、多摩美大の学生、児玉英雄さんが就活でハンスに会いに来た。その後ハンスの紹介で児玉さんはGMに入社することとなったが、当時GMではビザの対応が厳しく結局オペルへ行くことになった。それで児玉さんはハンスを恩人と慕っていた。デボネアの仕事が終った1965年、ハンスは日本を離れ新天地のインドへと向かった。しかし任地のヒンドゥスタンモーターズではこれと言った仕事がなく、不遇に終りアメリカに帰る。その後相当年下の若い奥さんアニータさんと結婚して、お二人で日本を訪問し、昔の職場で粟田さんを初めとして我々との再会を喜んだ。その後、私は2007年にハンスが亡くなったことをアメリカ在住のデザイナー伊藤邦久さんから聞いた。伊藤さんはちょうどデトロイトショーに来ていた児玉さんと一緒に、アニータさん(日本領事館に勤務)に会いに出かけたそうだ。そのあと児玉さんはハンスの墓参りをして、ドイツに帰ったという。
「走るシーラカンス」との異名
「走るシーラカンス」というのがデボネアに付いたあだ名だった。これは残念ながら「言いえて妙」だと言わざるを得ない。と言うのも1964年に発売後、後継車デボネアVが出るまでの22年間を生きながらえていたからだ。デボネアはアメリカの高級車を見事にスケールダウンしたデザインで、お手本があったとは言えL字型のリヤコンビランプやフロントのデザインにはオリジナリティがあり、その完成度は高かった。1960年代はアメリカ車のデザインが隆盛を極め、その影響はメルセデス・ベンツを含めたヨーロッパ車にも及んでいて、当時のクラウンやセドリックも例外でなかった。デボネアはその中でもアメリカンテイストが強く、そうかと言ってサイズと性格付けからしてアメリカ車そのものでもない、ユニークな存在だった。しかし、その後アメリカンスタイルの世界への影響は次第に収まり、デボネアのデザインが後の三菱車デザインに影響を与えることも無かった。
―― デボネア開発の成果
デボネアの22年間の販売台数は約22,000台で、利益とは全く縁のない車だった。当初の企画段階で懸念された様に、国内トップクラスの高級車で、その頃の販売力から考えて採算の取れる販売台数は難しく、この企画は初めから無理があったのではないかと思われる。しかしそれでも開発に踏み切ったのは、経営陣の間に三菱のフラッグシップカーを作ろうという熱意が相当強かったのであろう。デボネアは、採算は悪くとも三菱自動車の象徴としての役割を果たした。またそれ以上に、この開発を機にデザイン部門は大きく成長し、後々の発展へとつながった。それは、デボネア開発に先立つ通産省からのちょっとした指導をキッカケとして、ハンス・ブレッツナー氏という最高の協力者を得ることが出来たおかげだと言える。
2022年3月
初めての高級車インテリアデザイン
岡本治男
―― 仕事の発端
入社して1年半ほど経った1962年頃、私はコルト1000のインテリアデザインに携わっていたのだが、急遽初代デボネア(以降デボネア)のインテリアデザインに代るよう命を受けた。ハンス・ブレッツナー(Hans Bretzner)氏と小林健作さんのもとでの仕事だった。デザインは全てハンスに一任することになっていたので、私の仕事は、彼のデザインを基にしたモデルの製作、設計・製造部門とのデザインの詰め、ベンダーとの打ち合わせなどであった。仕事は多忙を極めたが、新しい経験の連続であり、とてもやりがいを感じた。またハンスは、いつ覚えたのかは知らないが、日本語で話してくれたので、英会話が全くできない私は大いに助かり、気持ち良く仕事することが出来た。デボネアのエクステリアモデルは、研究棟1階の広くて新しい意匠室で進められていたが、インテリアの作業はハンスのデザイン室とも言える技術本館4階の元の意匠室で行われた。
―― デザインをクレイモデル化
私が仕事に加わった時、計器盤とシートのフルサイズレンダリングが既にある程度出来上がっていた。ハンスは計器盤のレンダリングを前にしてそのデザインの狙いを説明してくれた。それは、上下のパッドに挟まれた横幅いっぱいのガーニッシュをドアへと連続させること。メーターフードはガーニッシュ内に収めてパッド上には突出させず、前方視界をすっきりさせること。メーターフード横に、クロームメッキのシーソースイッチを田の字に配置すること等であった。その説明とイメージ断面図を基にして、私はモデラーの応援も得ながらクレイモデルを製作した。モデルは仮のシートを装着した台上で作り、後々必要になった時に、フロントドア部やフロントデッキ、フロントピラーを付け足せる構造にした。
計器盤に続いてフロントシートもトリミングや縫製ラインを検討しながらモデル化した。その後、スイッチノブ、インサイドドアハンドル、アームレスト、ウインドウレギュレーターハンドルなど様々な小物を、大半はハンスのスケッチ指示を基に設計とやり取りしながらデザインをまとめて行った。
当時はしっかりとしたインテリアモデルを作って室内全体の出来栄えを確認するという考えがまだ無かった。またエクステリアの目途が付いてからインテリアに取り掛かった為に日程が厳しかった事もあり、出来上がった部品毎に一つ一つ承認を取って行った。従って、インテリア全体を見ることが出来たのは1963年の東京モーターショー出品車が出来上がった時であった。
―― パール塗装のモーターショーカー
「コルト デボネア」と名付けられたモーターショー参考出品車は、パールホワイト塗装だった。この色はそのまま生産車にも採用されたのだが、当時マイカの入ったパール塗装は恐らく国内初だったと思われる。実は、出品車の塗装が完了した数日後に、塗料の下から黒ずみが浮き上がってきたので関係者は大わらわとなった。これは、板金の表面にメモ書きしたマジックインキが原因であったことが後になって判明。当然塗装はやり直すこととなった。デボネアの車体色は全てハンスが計画し、塗料メーカーとやり取りをして作ったものだった。
シートはパールレザーと風合いのあるジャガード織の生地を組み合わせた高級感あるものだった。生地は、普通なら生地メーカーの提案の中から選んでチューニングするが、ハンスは京都西陣の織物工場まで出向き、初めから細かく柄を指示して生地を作り上げた。トリミングはビスケットタイプと呼ばれるデザインで、シートバックの背高感を抑えて開放的な雰囲気としていた。また計器盤のパッドは上質感にこだわり、電鋳型による成型によって、きめ細かいシボを表現した。ドアトリムには計器盤のガーニッシュとの連続感を持たせた細長いガーニッシュをはめ込み、水平基調の計器盤と相まって、開放感のあるインテリアデザインとなった。また、デボネアの仕様は1種類のみで、足元照明用ランプ内蔵のドアアームレスト、後席用のラジオ調節パネル、開閉式の後部三角窓、トランクルーム照明など、高級車としてのきめ細かい装備があった。
―― まとめ
当時のデザイン開発というのは、関係する設計部門やベンダーも含めて皆経験が少なかった。デザイン開発で遥か先を行くゼネラルモーターズのノウハウを身に着けたハンスの想いや指示を基にして、出来るか出来ないかではなく、どうやったらできるかと考え、将来の為にも是非やり遂げたいという想いを皆が持っていたように思う。1年少々のデボネアのインテリアの仕事は、私にとってその後の仕事の肥しとなる素晴らしい期間となった。クレイモデルを作りながら形を検討し、インテリア全般の部品について生産に入るまでの全ての工程に関わることで、多種多様な勉強と経験ができた。こうした経験が基になり、その後私はデザイン業務のほとんどでインテリアに携わることになった。
2021年10月