戦場のようなデザインの現場

 

伊藤隆造

―― 後発の4ドアセダン

コルト1000は三菱にとって初めての4ドアセダンだった。2ドアリヤエンジンの三菱500をスキンチェンジしたコルト600の一クラス上を狙った後継車となる車だ。当初はコルト600の延長線上で空冷800ccのリヤエンジン車の構想があり、2台のデザイン検討モデルが作られたと記憶するが、最終的には水冷1000ccおよび1500ccのフロントエンジン・リヤドライブで、オーソドックスなスリーボックス車との企画となった。

デザイン作業が始まった1961年当時、このクラスの市場は初代ダットサン・ブルーバードと2代目トヨペット・コロナが2大勢力で競合しながら大きく成長していた。この両者のデザインは大きく言えばどちらも丸形ヘッドランプの形状がそのままシリンダー状にフェンダーへと続くもので、当時の世界の車はほぼ皆このスタイルだった。私たちの仲間内では、これを「砲弾型のフロントデザイン」と呼んでいた。三菱500をスキンチェンジしたコルト600のデザインも、正にこのスタイルを踏まえたデザインで、ちょうどこの頃に最終デザインの承認を得たところであった。

コルト600

―― 始めはオーソドックスなデザイン

この同じ1961年に新三菱重工のデザイン部門は、技術部装備設計課意匠係から技術部意匠課へと一歩昇格し、デザインの現場は二村正孝さんが係長として采配を振るうことになり、技術部部長の坪田良雄さんがその上で取り仕切る形となった。エクステリアデザインの担当は家田務さんをチーフとして、重広さん、貝淵さんで、私は基本的にインテリア担当であったが、状況に応じてエクステリアにも関わっていた。コルト1000のデザインは、坪田さんと二村さんの考える基本的なイメージをスタッフが具現化する形で進んで行った。お二人の狙いは堅実かつ保守的で、出来上がったクレイモデルは砲弾型のフロントにテールフィンを付けた、当時の一般的なデザインを素直にまとめたものだった。別の言い方をすると、ほぼコルト600をそのまま大きくして4ドア化したデザインであった。

初期段階のスケールモデル

コルト1000

―― 一晩での変更

しかし、家田さんをはじめとする私たちスタッフは、二村さんの指揮でデザインを進める内に、これで良いのだろうかと次第に疑問を持ち始めた。と言うのは、東京青山の嶋田洋書から取り寄せているイタリアの自動車雑誌「STYLE AUTO」などの情報によると、フラットデッキスタイルが世界のデザインの潮流となり始めていると感じていたからだ。フラットデッキスタイルとは、ボンネットやフロントグリル周りがフラットなデザイン処理で、クリーンな近代感があり、それまでとは一線を画す新しいデザインなのだ。私たちは、フラットデッキスタイルを取り入れるべきだと何度か具申したが、残念ながら聞き入れてはもらえなかった。一方では、いま進めているデザインを元に既に試作車が製作されていて、開発プロジェクトは着々と進んでいた。しかし、この車が出現する頃には、このデザインは既に時代遅れとなっているのではないかと、強い危機感とともに上司に対する不満を持つ様になった。そうこうしている内に、久保自動車事業本部長にクレイモデルを見せてデザインの確認を取る日が迫ってきた。そこで、私たちは意を決し、二村さん達には内緒でフラットデッキスタイルのデザインを密かに検討した。私がそのスケッチを描き、1週間ほどかけて家田さんとともにデザインを練り上げた。そして、本部長が東京本社から来る前夜になって一気にクレイモデルを作り変えてしまったのだ。もちろん次の朝、二村さんはそのモデルを見て唖然とされたわけだが、久保本部長には大幅に変更したデザインで承認をもらうことが出来た。

初期段階の試作車

フロント周りの検討スケッチ

コルト1000クレイ2

一晩で作り変えたクレイモデル

―― 振り返れば

その後、二村さんと家田さんの間でどういうやり取りがあったかは記憶にないが、気まずい状況になったとは思う。その頃の意匠課はまるで戦場の様な所だった、私たち若手は何としてでも良いデザインを作らなければならないという気持ちでいっぱいであり、若さで突っ走ってしまったことは事実だ。いま振り返ると、上司も部下も自動車デザインについての知恵と経験がまだ少ない中で、このような衝突は避けられないものだったと思う。デザインが最終的にまとまった後に、別のスタジオでデボネアをデザインしていたブレッツナーさんは、コルト1000のきれいなスケッチを描いてプレゼントしてくれた。それは、私たちのデザインを祝福してくれていた様に感じられ、たいへん嬉しく思った。

 

コルト1000ブレッツナーのスケッチ

ブレッツナー氏からプレゼントされたスケッチ

氏の談話を編集者がまとめました 2021年12月

 




コルト1000の思い出

 

三橋 慎一

―― 三菱でのスタート

私は1960年に新三菱重工に入社し、初めの1年は見習い期間であった。工場での現場実習を行い、さらには「見習い」から本採用の「技師」になるための登用論文というものに取り組む期間だ。私の登用論文は「可変式運転姿勢検討装置」という題目であった。実を言うとこの論文は、私の指導員であった渡部さんがほとんど図面を描いて製作されたもので、私は「おんぶに抱っこ」であった。渡部さんは、理論家であり、物事を科学的に考える人であったと同時に、先輩ではあっても話しやすく、この職場の中で私にとって最も尊敬できる人だった。

可変式運転姿勢検討装置と筆者

―― ホーンリングの無いデザイン

登用論文が無事に終わった後、私はコルト1000のインテリアデザイン全般の仕事を任された。ハンス・ブレッツナーの真似をしてケント紙にチョークでフルサイズのスケッチを描いたりしていたが、日程が切迫しており、早くステアリングホイールのデザインにとりかかるよう指示が出た。アメリカ車のカタログなどを調べると、ほとんどの乗用車にはホーンリングが付いていて、これが常識の様だった。しかし、アメリカ車の様にすり鉢状に深いステアリングホイールの場合は、ホーンリングは不可欠だが、そうでなければ必要は無いのではないかと考えた。中央に柔らかな形状をしたパッドを配し、そのパッド自体を押すことでホーンが鳴るという仕組みとし、パッドは大振りにして安全な印象にする。操作性は問題なさそうだし、コストダウンにもつながるはずであり、何よりも余分なものを省いたシンプルなデザインは新鮮ではないかと考えた。

インテリアのレンダリングを描く筆者

コルト1000は、ダットサン・ブルーバードやトヨペット・コロナ、さらには後に続く日野・コンテッサにかなりの遅れをとっての登場となる。他社も常に新しいものにチャレンジしているはずであり、三菱は意欲的過ぎるぐらいのデザインをしなければ追い付くことはできないと思った。しかし、デザインを審査する坪田部長は、エクステリアデザインでは進歩的なフラットデッキの採用に反対し、従来的なデザインにこだわった人で、先輩たちからは保守的だと言われていた。ステアリングホイールにはメッキのホーンリングを付けて立派に見せるのがそれまでの常道であり、これを無くすことは、あるべきものが無いという印象となるので、坪田部長はこれをどの様に受け取るだろうかと、正直言って不安であった。


―― 不覚にも我を失う

インテリアの部内審査で、机上に置かれた私のステアリングホイールのモデルを見て、坪田部長は不機嫌そのものだった。「なんだか変なかっこうだなあ」「いやにバランスも悪いし、第一、どうしてホーンリングが付いていないんだ」それに対して、私は「これが新しんですよ。ホーンリングなんてもう古いんですから」と、思わずぶっきらぼうに言ってしまった。周囲の人たちは沈黙し、大変気まずい雰囲気となってしまった。部長は「ホーンリングを付けなさい!もう一度やり直すことだね」と言ってモデルを私の方に突き返した。その瞬間、私は完全に我を失ってしまった。モデルを手に取って上に振りかざし、机の上に叩きつけてしまったのだ。その場の全員があっけにとられる中、頭の中がくらくらして私は部屋を飛び出した。

その後、先輩達にはさんざんに叱られた。日頃、「デザイナーは自分の意見が正しいと思えば、とことん主張するんだ。負けちゃいかん」と言っていた家田さんからも、「あれはないぞ、あんな態度しちゃいかん。すぐ謝ってこい」と言われた。どうしてあれほど逆上したのか自分でもよく分からなかったのと同時に、自分に情けなくて悔しかった。結局は渡部さんの計らいで、私の代わりに先輩の伊藤隆造さんがホーンリングを付けたデザインをしっかりとまとめてくれた。

コルト1000ステアリング


―― 精一杯のデザイン

1963年にコルト1000が発売されると、その数ケ月後には2代目のブルーバードと、2代目のプリンス・スカイラインが発売され、どちらも所謂フラットデッキスタイルであった。さらに、翌年発売された3代目トヨペット・コロナは単にフラットデッキというだけではなく、一歩先を行く斬新なデザインであり、私は大いに感銘を受けた。一方でコルト1000のデザインは、取りあえず時代の波には乗ったものの、質実剛健でコンサバティブなものであった。この車のデザインにあたって坪田部長や二村係長は確かに保守的であった。しかし今にして思うと、三菱が初めてデザインした乗用車、三菱500が不評であったことから、お二人は何とかして世間並みのデザインにまとめなければいけないと考え、そうならざるを得なかったのだ。そして我々スタッフもここまでデザインをまとめるのがぎりぎり精一杯であり、まだまだ力不足だった。

コルト1000

トヨペット・コロナ(左) ダットサン・ブルーバード(右)  画像提供:トヨタ博物館

―― 小さな足跡

自動車レースが好きな私は、伊藤さんらと共に1964年の第二回全日本自動車グランプリを観に鈴鹿へ出かけた。前年の第一回グランプリでトヨタは、クラウン、コロナ、パブリカが各々クラス優勝し、それを販売キャンペーンへと結びつけて大いに売り上げを伸ばした。そこで、この年は三菱を含めて各社がこぞって本格的にワークスチームで参加したのだ。特にプリンスは、このレースのためにスカイラインの特別仕様のGTを100台生産したほどであった。三菱のコルト1000は、ツーリングカー部門のTⅢクラスで日野コンテッサと争い、優勝した上に4位までを独占し、私たちはとても誇らしく感じたことを覚えている。こうして、コルト1000は真面目で目立たない車ではあったが、歴史に小さな足跡を残すことが出来た。

コルト1000 1964日本グランプリ

 

―― 思いもよらぬ便り

コルト1000のインテリアデザインで私は渡部さんから多くのことを学んだ。渡部さんは私と同い年だが、実務に長けていただけでなく「車やデザインはどうあるべきか」というしっかりとした考えを持っておられ、そこは見習いたいと感じていた。その後何年かして、私はアメリカのデザイン学校に会社から留学させてもらえることになる。英会話もおぼつかないままアメリカに渡り、毎日が新しい事の連続で、あたふたしながらも刺激的な生活を送っていた時、渡部さんから手紙が届いた。中身を読むと渡部さんは家田さんと共に会社を辞めて独立し、名古屋でデザイン事務所を立ち上げるという思いもよらぬ内容で驚いた。そこには「後のことは三橋に頼む以外にない。・・・・アメリカで貪欲に学んできてくれ」と記してあった。お世話になり、親しくしていただいた方々だけに残念だが、人にはそれぞれの道があるのであって、自分はお二人の分まで勉強しようと考えるしかなかった。

氏の談話を編集者がまとめました 2021年12月