「MITSUBISHI COLT F2A」
日本の自動車レース界創世記よりフォーミュラの開発を推進してきたMITSUBISHIは、1967年第4回日本グランプリのフォーミュラカーレースにCOLT F2Aを投入。予選から圧倒的な速さを発揮し、決勝レースでは1-2フィニッシュ。望月修選手(No.10)と益子治選手(No.11)の記憶に残るトップ争いをセピア調のモノトーンで描くことにより印象的なイラストにトライしてみました。
山本 憲
「MITSUBISHI LANCER」
1988年発売のミラージュ4ドアセダンは、海外ではランサーと呼ばれ、バックライトからリヤエンドにかけての大胆なラウンドシェイプが個性的であった。この絵は、ある海外ディーラーの15周年記念セレモニーに招待された益子社長が、記念品として贈呈したもの。このディーラーが初めて販売したのがこのランサーセダンだった。私は三菱オートギャラリー館長の沖信一さんの依頼で2006年にこの絵を描いた。しかし、この車が海外ではランサーと呼ばれていたことを、この時になって初めて知ったのはうかつだった。
山本 憲
「MITSUBISHI MIRAGE CYBORG」
1987年に発売されたミラージュ3ドアハッチバックの最上級スポーツモデル。このデザインはカリフォルニアスタジオからの提案を岡崎デザイン部で仕上げたものだった。丸みを帯びたフラッシュサーフェス処理は質感があり、サイドからリアにかけてのラップアラウンドしたウインドウデザインは斬新だった。エアロバンパーとリアスポイラーを標準装備したバブル期のデザインでもあった。この絵は、このデザインを担当した仲間が2012年にリタイアする時、その記念に描いて贈呈したもの。その彼は、翌年に急逝。彼との思い出を繋ぐ唯一のものとなった。 山本 憲
「MITSUBISHI PAJERO PROTOTYPE」
1988年第10回パリ・ダカールラリーは、1月1日にパリを出発し、ダカールまでの13,000kmを22日で走破する過酷なラリー。途中、首位をキープしていたアリ・バタネン ドライブのプジョーが盗難に遭う等、様々なトラブルがありながらも、篠塚建次郎ドライブのパジェロ215号車は、終始堅実な走行に終始し、見事総合2位を獲得。 山本 憲
「1996年サファリ ランサーEVOⅢ」
1996年の世界ラリー選手権(WRC)でトミ・マキネンは、ランサーEVOⅢを駆って無類の総合力の高さを発揮し、全9戦中5戦を制してドライバーズチャンピオンを獲得した。特に第2戦のサファリラリーでは、WRCイベント中もっとも高速走行性能が必要とされる70km以上直線が続く灼熱のサバンナは、一旦雨が降ればたちまち泥濘と化し高い悪路走破が求められるという、相反する過酷な条件の中、1976年のランサーGSR以来20年振りの総合優勝を飾り、記録にも記憶にも残るラリーとなった。 山本 憲
「1997年ダカール パジェロ」
1997年のダカールラリーで三菱自動車は、篠塚建次郎による日本人初の総合優勝と、史上初の1~4位独占という快挙を同時に成し遂げた。篠塚の車は、メーカーのプロトタイプでのエントリーを禁止した新レギュレーションに対応し、2代目パジェロ・ショートをベースに新たに開発されたラリー車だった。私はこの量産モデルのデザインを安倍先輩とともに担当したことから、優勝を知った時の喜びはひとしおだった。その後、自分が関わった車の歴史的な記録を絵にしておきたいとの思いからこの絵を描いた。 山本 憲