言葉でデザインしたスタイリッシュクーペ
本多 潔
1975年に登場したランサー・セレステは、初代ランサーをベースとした2ドアハッチバッククーペだ。国内ではギャラン・クーペFTOの後継車で、北米では当時提携先だったクライスラー社からプリムス・アローなどの名で販売された。国内では若者がデートでドライブに行くためのスポーティな車が求められ、アメリカでは手ごろな価格で高品質の日本製スポーティカーが求められていた時代であった。
この車のデザインはたいへん型破りなやり方で進められた。その中心人物は当時の意匠課長、二村正孝氏50才なのだが、氏を採り上げた本「二村正孝とセレステ」(CAR DESIGN BOOKS 1)や当時を知る関係者の話を元にその経緯をたどってみる。
―― 当初の商品企画
セレステの当初の企画は、ランサー2ドアセダンのフロントからドアまでを使い、開発費を抑えながら、若者が求めるスタイリッシュなクーペを作るというものだった。二村課長は後に、「これは企画部門の虫のいい要求で、デザインの自由度が少ない中で恰好良さを求められる、大変難しい仕事でした」と振り返っていた。とはいえ当時セダンをベースとしたクーペを作る企画は一般的で、専用ボディを持ったスポーティカーは初代セリカぐらいであり、虫のいい企画とはちょっと言い過ぎかも知れないが、デザイナーの力量に多くが期待された企画ではあった。しかしこの車の場合、ことはそう簡単ではなかった。

セダンをベースとした3代目カローラクーペ

セダンがベースのファミリアロータリークーペ
―― デザインの行き詰り
初めは企画通りランサー2ドアセダンのリヤをクーペスタイルに変更したモデルが何案も作られた。しかしランサーは元々が大人しいデザインで、ボディサイドにはキャラクターラインが何も無いために動きに欠け、何案作ってもスポーティなデザインにはならなかった。デザインは設計と違って数値的なゴールがなく、「これで完成」とするかどうかは審査する幹部のセンスにゆだねられる。しかし残念ながら当時デザインに一家言持つような幹部はおらず、また二村課長はデザイン部門のリーダーとはいえ立場上審査に加わることが出来ない。かといってこの行き詰った状況から抜け出すために企画を見直す決断のできる幹部もいなかったのだろう。そうした中で、二村課長はイタリアのトリノオートショーに出張する機会を得た。それは、幹部がこの時の打開策として考えた事だったのかも知れない。
―― トリノでの鮮烈な体験
1972年のトリノオートショーの目玉はジョルジェット・ジュジャーロ氏デザインのコンセプトカー、ロータス・エスプリだった。ジュジャーロ氏のデザインは、70年代に入ってからより一層シャープでフラットな面処理で一段と鋭さが増した造形に進化し、世界の注目を集めていた。二村課長はショーを視察した後、ジュジャーロ氏のスタジオと自宅を訪問する機会を得た。三菱はそれまで2度にわたって彼に仕事を依頼したこともあり、大いに歓待を受けた。二村課長はこの時の体験を次の様に語っている。「ジュジャーロさんの自宅には彼自身が描いた風景画等が飾ってあり、そのどれもが驚くほど魅力的なのです。彼には車のデザインだけでなく幅広い才能があることを見せつけられ、一流になる人はやはり違うと実感しました」「彼のスタジオやトリノショーで受けたイタリアンスタイルの印象を強烈に脳裏に焼き付けたまま、私は日本への帰路に就いたのです」二村課長はそれまでセレステのことでずっと思い悩んでいただけに、トリノでの体験は鮮烈だったのではなかろうか。そして帰国の途で自分がやるべきことを決心したのである。

トリノショーで注目を浴びたロータス・エスプリ

ジュジャーロ邸での二村氏とジュジャーロ夫妻
―― 常識破りのデザイン作業
帰国後、二村課長は技術センターの小林貞夫所長に、ボディを全て新作したデザインを作ることを提案し「二村が自由にデザインする時間を1週間ください」と頼み込んで了解を得た。当時まったく新しいデザインを一から始めて1/1モデルにするには少なくとも3ケ月はかかっていたが、それを1週間でやるのは尋常ではない。その秘策は、アイデアスケッチの行程をすっ飛ばし、いきなり1/1のテープドローイングを作ることであった。担当デザイナーの一人であった水谷弘さんは当時の様子を次の様に語っている。
デザイン開始の日、二村課長は相当に気合が入っていました。普段は課長として管理業務に専念していたのが、この時久方ぶりに現場で自らデザインするチャンスを掴んだのですから無理もありません。課長はいわば戦闘モードで、我々担当デザイナーを前にして「これから俺が全部指示を出す。ボディはおっさん達※には指一本触れさせんからな!」(※当時社内では後輩社員を「おっさん」と呼んでいた)と先ずくぎを刺しました。続けて「その代わり艤装品はまかせるから」と前置きし、1/1のテープドローイングを前にして椅子を前後逆に置いてまたがり、「そこはスーッと思いっきり勢いよく」とか、「最後はズバッと止めて」などと手振りを交えてスタッフに指示を出していったのです。僕らの中で先輩格の古川さんはそれを受けて、フリーハンドでテンションの効いたラインを見事に引いていて、後に私はそのコツを伝授してもらいました。二村課長は、「この仕事は命の洗濯だよ!」と言いながら、嬉々としてこの時の作業を楽しんでおられました。

二村課長の口頭指示で描かれたテープドローイング

ベースとなったランサーとは見違えるプロポーションのドローイング
こうして二村課長は担当デザイナーの一挙手一投足を言葉でコントロールしながら、イメージを具体化していった。こんなやり方は前例が無い。しかし彼は、デザイン部門を10年以上牽引してきた自分がここで先頭に立つしかないとの思いだったのだろう。一方担当デザイナー達にとっては、言われた通りに線を引くだけという、ある意味情けない役回りだったが、この時他に選択肢は無く、ここは二村課長と一つになって前に進むしかないと皆納得したのだった。
それにしても言葉だけで車をデザインしたのはある意味画期的であった。二村課長にとってそれは窮すれば通ずの策だったが、半世紀以上たったいま考えてみれば、画像生成AIにプロンプトで指示をするのと同じではないか。そんな便利なツールなど全く想像出来ない時代にそうした柔らかな発想をできたのは、やはりデザイナーならではと言えるだろう。
―― スタイル最優先
このデザインは、当時のジュジャーロのデザインにみられるフラットな面、シャープなエッジ、強いタンブルホームとターンアンダーを組み合わせたものだった。デザインの前提となる当初の基本レイアウトはほとんど無視し、なによりもスタイリッシュにすることが最優先だった。ウインドシールドはそれまでの三菱車として最も傾斜の強い30度とした。これはガラスへのインパネ上面の映り込みが強くなり設計サイドから反発が出るのを承知の上であった。また担当デザイナーがノーズのラインを長めに引いて、二村課長に「これくらい延ばしますか?」と聞くと「どうせ後で短くされるだろうから200mm延ばしておけ!」との指示で、かなりのロングノーズとなったが、後にそのままデザインは承認されることになる。
一刻を争って作業を進めるため、モデル用図面とモデル製作はほぼ同時進行となり、デザイナーがラインを引いた端からモデラーがモデル切削用のゲージを作り、すぐさまクレイを削るという具合だ。通常の倍の8名ほどのモデラーたちが、体が触れ合うくらいにモデルに寄ってたかって作業し、さらに手の空いている者たちが集まって周辺の作業を手伝うなどして、3日で基本形状が出来上がり、そこから仕上げをして予定通り1週間でクレイモデルは出来上がった。そのモデルをデザイン検討会でお披露目すると、すんなりとデザインの方向性が承認された。

モデラー達がクレイモデルに群がる異様な作業風景

ゼロから1週間で出来上がったクレイモデル
その頃、久保富夫氏が社長に就任。久保社長は就任早々「これからデザインは俺が決める!」と宣言し、社長みずからデザインを指揮するようになった。セレステのモデルを見た社長は、クォーターピラーを後方に流れる様なラインに変更するよう指示した。それに対して二村課長は当初の前傾したクォーターピラーを主張し、両案を作って検討したが、結局最後は社長に押し切られてしまい、二村課長は無念だったようだ。

二村課長が発案した当初のモデル

クォーターピラーをチェックする久保社長

久保社長の指示でピラーを変更したモデル
―― ディテールデザイン
仕上げの段階に入り、若手デザイナー達がディテールを作り込んで行った。フロントグリルとリヤクオーターウインドウに付けたエアアウトレット風ガー二ッシュは渋谷克博さんが担当し、L字を上下逆さまにした特徴的なテールランプは水谷弘さんが担当した。艤装品のデザインに取りかかる頃、第一次石油ショックが勃発し、石油製品である樹脂が使えなくなるのでは、との懸念から艤装品類を板金で製作することを検討していたが、ほどなく石油ショックは沈静化した。しかし既にデザインをやり直す時間は残されておらず、フロントグリルは板金案をベースに樹脂化され、またリヤガーニッシュは板金のままで生産化されることとなり、これはこの時代ならではのことであった。

採用にならなかったフロントグリル

採用になったフロントグリルはボディーの横断面と関連付けた小さな六角形パターンとした

サイドを特徴づけるリヤクオーターガーニッシュ

採用にならなかったリヤランプ

採用されたテールランプはセレステを特徴付けた
―― かつてない成功
ランサー・セレステは1975年2月に国内で発売となり、その後ヨーロッパや東南アジア諸国に輸出され、提携先のクライスラーを通じてはプリムス・アローなどの名前で北米やオーストラリアなどで販売された。ライフサイクルトータルで30万台を超える販売は、三菱の2ドアクーペとしてはそれまでにない成功であった。この成功は、ラリーで輝かしい成績をあげた初代ランサー譲りの性能もあったが、何と言ってもそのデザインがものを言ったといえるだろう。そしてそのデザインが生まれたのは二村意匠課長が意を決して当初の商品企画をひっくり返した結果であった。三菱の中には、行き詰った時にこうした既定の枠から外れた提案や行動を受け入れるところもあったといえる。

クライスラー社向けのプリムス・アローを検討するクライスラーの幹部たち

クライスラーから発売されヒットしたプリムス・アロー
2024年9月