「デザインは俺にまかせろ」

経営者にしてデザイナー・久保富夫

本多 潔

デザイン重視の始まり

航空機設計者への道

戦後の道のり

ふたたび自動車の開発へ

苦難の時

デザインにこだわる新社長

黄昏

はじめに 

かつての三菱車の中で、1960年代の終わりから80年代にかけて登場したミニカ’70、コルト・ギャラン、ギャラン・シグマ、ギャラン・ラムダ、ミラージュさらにはスタリオンは、いわば三菱車デザインの黄金期を築いた存在だった。これらのクルマは、性能だけでなく魅力あるデザインという商品力でヒット作となり、結果として当初不振だった三菱の乗用車事業は軌道に乗り、経営基盤の強化に大きく貢献した。では何故、そうした優れたデザインが生まれたのだろうか。そこには、現場のデザイナーを強力にリードした経営者、久保富夫さんの存在があった。

当時社内では「久保さん」と呼ばれていたため、ここでも以下そのように呼ぶこととする。

久保さんは戦時中、当時日本最速の百式司令部偵察機を設計した技術者としてのバックグラウンドを持ち、戦後は自動車の開発に力を注いだ。彼は経営者でありながら、デザイン開発の現場に頻繁に足を運び、デザイナー達を直接リードした上でデザインを承認した。

ミニカ’70(左)   コルト・ギャラン(中央)   ギャラン・シグマ(右)
ギャラン・ラムダ(左)   ミラージュ(中央)   スタリオン(右)

それは三菱自動車の歴代経営者の中で特別であっただけでなく、世界のカーメーカーを見渡しても、彼に相当する人物はきわめて少ない。歴史をさかのぼれば、その一人はジャギュアの共同創業者、サー・ウイリアム・ライオンズである。ライオンズは「Grace, Space, Pace(優雅さ、居住空間、速さ)」を理念とし、「Copy Nothing(模倣するな)」の考えのもと独自性のあるデザインを追求した。自らデザインの方向性を示しながらマルコム・セイヤーらのデザイナーをリードし、プロポーションやディテールに至るまで厳しくデザインを吟味。その結果、マーク2、XJ6 シリーズ1、Dタイプ、Eタイプなど、数々の美しい名車を生み出した。

もう一人はポルシェの創業者の孫、フェルディナント・ピエヒだろう。アウディの開発担当役員時代には、アウディ100で徹底した近代的空力デザインを導入。またVWグループの会長時代には、ボディの組み立て精度を格段に向上させるなど、エンジニアリングの視点からデザイン品質を大きく高めた。また経営戦略の一環としてフォルクスワーゲン、アウディ、ポルシェ、シュコダ等、各ブランドのデザイン理念を確立し、その価値を高めるなどして、傾きかけていたグループ全体の経営を立て直した。

サー・ウイリアム・ライオンズ
フェルディナント・ピエヒ
画像提供: Stuart Mentiply / Wikimedia Commons(GFDL)

久保さんの場合も、経営者でありながら自らのデザイン哲学を持ち、現場での指導と厳しい選択眼を通じて、個々のクルマを魅力あるデザインにまとめ上げたという点で、稀に見る才能を持った人だった。そうしたことから、三菱車のカーデザインの歴史を語る上で、久保さんの存在を抜きにして語ることはできない。そこでまず、今も私の記憶に鮮烈に残る、彼との最初の出会いから話を始めたい。

―― デザイン重視の始まり ――

―― 岡崎の第一技術センターへ

私が久保さんに初めて会ったのは、彼が三菱自動車(1970年に三菱重工から独立)の2代目社長に就任して間もない1973年6月のことだった。場所は私が働いていた愛知県岡崎市にある第一技術センターの意匠課である。

第一技術センターは、それまで愛知県名古屋市と岡山県水島市に分散していた開発部門を集約した施設で、4年前に開所したばかりだった。ここはアメリカの設計会社によるキャンパススタイルのレイアウトを特徴とし、広大な敷地に設計、エンジン技術、研究、実験、試作、意匠、管理といった機能別の建物とテストコースが併設されていた。所内には欅、金木犀、萩、シュロ、ツツジなど様々な植栽が施され、さらに私のいた意匠課のそばには一辺10mほどのコの字形をした池があり、研究開発という創造の場にふさわしい環境だった。

第一技術センター

この施設は、久保さんが三菱重工の自動車事業部長の時代に構想し、建設を推し進めたものだった。しかし皮肉なことに、彼は5年近く自動車事業から離れた時期があったため(その経緯については後に触れる)、開所式には出席できず、自ら計画した舞台に、この日ようやく立つことになったのである。そして東京の本社からやってきて真っ先に訪れたのが意匠課、すなわち自動車の開発が最初に形となるデザインの現場だった。

―― 新社長の檄

その日、新社長からデザイナー全員に話があるとのことで、意匠課のスタジオに30人ほどが集められた。入社4年目の私はもちろん、誰もが社長直々の話とは一体何だろうと少なからず緊張を感じていた。やがて意匠課長に先導されて現れた久保さんはこの時64歳。身長180㎝を超すと思われるがっしりとした体格に端正な顔立ちの人で、私はかつての西部劇スター、ジョン・ウエインを思い浮かべた。

全員を前にして、久保さんはこう言った。

「これからは俺がデザインを決める。デザインは俺に任せろ」

それまでの佐藤勇二社長は営業畑出身で、銀行からの信頼が厚い人といわれていたが、デザインへの関りは少なく、デザイン承認は各部門のトップによる合議制であった。各部門の事情を調整した結果から創造的なデザインが生まれることは期待しがたい。久保さんはさらに続けた。

「まずはデザインだ。技術はカネと時間が掛かる。デザインは知恵とセンスがあればすぐできるんだ」

「君たちはどうも営業の言う事を聞きすぎる。もっと自信を持ってやれ」

営業部門の要望は、えてして他社の動きに左右された目先のものになりがちである。彼の意図は、デザインの素人の言う事など聞かないで良いから、とにかく君たちが良いデザインを作れば俺が決める、ということのようだ。彼の言葉で思い当たるのは、その頃発売されたばかりのニュー・ギャランだ。大ヒットしたコルト・ギャランがスポーティで引き締まった外観であったのに対して、高級感を重視して重量感のあるデザインに変貌していた。それは久保さんが目指す方向ではなかったようだ。

「君たちは人のやれないことをやれ。創造こそ人間の存在価値だ」

との言葉で久保さんは話を締めくくった。これが彼にとって自らが発案した岡崎の第一技術センターでの記念すべき第一歩となった。

彼の力強い言葉に私たちは感動した。というのも、それまでは関係部門からのコストダウン要求が強く、ニューギャランの開発では、関係する役員の指示でデザインモデルの各部品にコストを書いた札を貼り、デザイン検討会がまるでコストダウン検討会のごとき状況さえあった。また部品の車種間での共通化も、デザイン検討の際にたびたび出てくる話題であった。その頃のデザイナーのモチベーションは極めて低かったが、久保さんの言葉に「これからはデザイン重視の時代が始まりそうだ」という希望あふれる空気が課内に広まった。

さてここで、その後の久保さんの仕事を追う前に、彼がどのようにしてデザインに対する考えを深めていったのか、その経緯を振り返ろう。

―― 航空機設計者への道 ――

―― 最初の試練

久保さんは1908年(明治41年)長崎県南高来郡愛野村(現在の雲仙市)の生れで、6人兄弟の末っ子だった。愛野村は、島原半島の細い付け根に位置し、有明海と橘湾にはさまれた土地だった。村のガキ大将だった久保少年は、干潟の広がる有明海や、美しい砂浜が広がる橘湾で魚や雲丹を取って遊んでいた。父は村長を務める裕福な大地主。母親は旧島原藩主の末裔で、その父は武士で医者であった。父親はある時、人の良さを見込まれて有明海の新田開発事業の連帯保証人となったのだが、その事業の失敗によって破産し、田畑などほとんどの資産を失ってしまう。久保さんはその時まだ小学5年生。収入源を失って暮らしは立ち行かなくなり、東京で働く年の離れた兄を頼って上京することとなった。

小学生の久保さんにとって、親が破産して別れて暮らすというのは、さぞかし大きな出来事であっただろう。しかし幼少期に親元を離れて生きることは、子供に強い自立心や目的意識を植え付ける。久保さんもこれからは自力で生きて行かねばならないと覚悟を持ったのではないだろうか。

東京に移り、開成中学校に入学。長崎の小学校では成績の良かった久保さんだが、東京ではレベルが違い、最初に受験した中学を落ちて開成中学になんとか滑り込んだ。その後、新しく出来たばかりの旧制東京高等学校に進む。ここはイギリスのパブリックスクールを範とする自由主義的教育が特長であった。

東京高等学校で同級生だった平山廣次氏は後に「久保は芯が強くスマートで、数学と英語が得意。ランニングは僕より大分早かった」と語っている。その後久保さんは東京大学の工学部航空学科に進み、航空機のエンジニアを目指す。この時代は第一次世界大戦が終わり、軍部が航空機の国産化を強力に推し進めた時機だった。

久保さんは親代わりのお兄さんに中学、高校、大学と青年時代をずっと世話になる中で、少しでも早く自立しなければならないとの思いから、ひたすら勉学に励んだという。

東京大学工学部航空学科時代の久保富夫氏

―― 設計の現場で頭角を現す

久保さんが東大を卒業した1931年は、関東軍の策略により満州事変が勃発し、日本が帝国主義的な道を歩み始めた年である。彼は三菱航空機(後の三菱重工)名古屋製作所に就職。そこは名古屋港に面した広大な埋立地で、工場わきの広い草原で社員は野球やラグビーを楽しみ、久保さんはハイジャンプの練習をしていたという。

学生時代には遊びに金をかける余裕など全くなかった久保さんだが、就職を機にドイツ製のオートバイNSUを購入した。これに乗って週末には名古屋からあちこちへ出掛け、それを地図上に赤い線で記録した。西は和歌山、東は長野辺りまで、地図には無数の赤い線が描かれた。

会社での当初の仕事は4年先輩の堀越二郎氏(後に零戦を設計)の下で九六式艦上戦闘機を設計、さらに河野文彦氏(後の三菱重工社長)の下では九七式司令部偵察機を設計した。どちらも歴史に名を残す名機だ。後に、この頃のことを久保さんは、「木製から金属製、複葉から単葉、外国設計のライセンス生産から純国産へ、すべての転換が一度にやってきた時代だった」と振り返っている。そうした中で、空気力学の進歩により、航空機の高速化がめざましく進んでいた。構造設計や強度計算の力を付け、上司の信頼を得た久保さんは、その後キ46百式司令部偵察機(百式司偵)の設計主務を任されることになる。この時28歳だった。

河野技師(前列中央)の設計チーム 久保富夫氏(後列左から2人目)堀越二郎氏(前列左端)

―― 百式司偵の成功

百式司偵は当時日本最速の航空機で、その優れた性能と1,741機という量産の結果、太平洋の広い範囲にわたる戦線で大きな実績を残している。主な任務は、敵地の状況を撮影して帰り、後に続く爆撃の精度と効率を高めるというものである。武装は持たず速度を重視した偵察機であり、その高速性能により敵の追撃を振り切るという設計思想だった。そのため、百式司偵の飛来は後続の爆撃作戦の前兆として警戒されたといわれる。

百式司偵のⅢ型、Ⅳ型は機体の美しさで世界に知られている。しかしこれについて後に久保さんは「小さな機体に大きな発動機を取り付けたため自分の思っていたほどスマートなものとはなっていない」と語っている。世間の評判をよそに、彼にはスマートでバランスの良い形へのこだわりがあったようだ。また「飛行機の姿を見て、ああキレイだな、と思うようなものでなければ、その飛行機は良くならない」とも語っており、美しさと性能は表裏一体と考えていた。

戦況は次第に厳しくなり始め、軍部からは絶え間なく設計変更や新型機の要求が出され、それに応えるべく、この時期の久保さんは仕事に忙殺されていた。そのため、自身が設計した百式司偵の速度記録飛行に搭乗できる絶好の機会さえもあきらめざるを得なかった。この飛行は排気ガスタービンをそなえた最終のⅣ型の試作機によるもので、北京から東京の福生まで2,250Kmを飛び、平均時速は700kmを上回った。この知らせを聞いた久保さんは大いに喜んだそうだ。

百式司令部偵察機 Ⅳ型

―― 理想を追求したキー83

次に久保さんが主務を務めたキ-83遠距離戦闘機は、百式司偵よりもさらに高速を目指した双発機であった。彼は当時一般的であった胴体外形線をフリーハンドとバテン定規(木のしなりを利用した定規)で起こす手法を非科学的だとして嫌い、「真の流線形とは連続した線で形成されるもので数値化できるものである」という信念から、東條輝雄氏(後の三菱自動車社長)に数値化流線形の計算作業を指示。納得のいく結果が出るまで20回以上やり直しさせた。しかもそれだけではない。その後に続く風防の設計では東条氏に数えきれないほど線図を描かせたという。久保さんは、性能と美しさを両立させることこそが自分の目指すところと考えたのではなかろうか。ここに、とことん理想を追求する久保さんの姿勢がみてとれる。

完成したキ-83は百式司偵よりもいっそうスリムで均整のとれた機体となり、久保さんの設計思想が具現化した飛行機だといえるだろう。

キー83

―― 空襲から疎開へ

1944年12月13日、B29による名古屋空襲が始まった。名古屋航空機製作所の工場群は壊滅し、巨大な工場は鉄骨の残骸と化した。幸い、久保さんの所属する技術部は、その6日前におきた昭和東南海地震の被害を受け、市内各所へ分散移転していたため難をのがれた。しかし工場周辺の防空壕に避難していた従業員の一部は、防空壕もろとも吹き飛ばされてしまい、彼はそのすさまじい惨状を目の当たりにして呆然としたのだった。

久保さんらの技術部は試作工場と共に長野県松本市へ疎開し、百式司偵の改良とキ-83の開発を続けた。空襲は全国各地で激しくなり、道路、鉄道、通信などのインフラはズタズタで、物資や食料の確保はままならなくなった。久保さんと仕事を共にする陸軍大佐はアメリカの短波放送を聞いていて「久保さん、もう駄目だよ。大本営発表はうそっぱちで、どんどん負けてるよ」と教えてくれた。もう勝ち目はなく、敗戦は避けられないと現場の多くが感じていた。それでも作業は懸命に進められ、キ-83の試作機は4機が完成したが、1機は試験飛行中の風防のトラブルで墜落し大破、2機は空襲で失われたところで終戦となった。

終戦直後、松本市の飛行場にあった最後の生き残りのキ-83を米軍が引き取りに来た時、久保さんはこれに立ち会った。グラマンTBFアベンジャーから降りてきた将軍らしき人物と普通の兵隊がまるで友達の様に話しながら歩いてきた。日本の軍隊では考えられないその様子に、久保さんは「ははあ、アメリカの民主的というのは、こういうところなのか」と感心したという。明治生れとはいえ、若いころに進歩的な教育を受けた久保さんは、民主主義への関心が高かったのかも知れない。その光景は、帝国日本の終わりと、新しい日本の始まりを象徴する場面として久保さんの記憶に刻まれたであろう。

航空機設計者時代の久保氏

―― 戦後の道のり ――

―― 3輪トラックの開発

1945年、敗戦の結果、GHQにより航空機の製造は禁止され、設計者たちは皆仕事を失った。その時久保さんは36歳。とりあえずは何もすることがなくなった状況の中で、退職する人も多くいたが、彼は構造力学の研究を論文にまとめ、母校東京大学から工学博士の学位を授与された。それは入社以来14年間全力を傾けた航空機設計者としての仕事の総決算であり、新たな道に踏み出すための区切りでもあった。

翌年久保さんは、名古屋から岡山県の水島製作所に移った。ここは戦時中、三菱重工のもう一つの航空機生産拠点であったが、名古屋製作所よりは爆撃の被害が少なかった。そこでの仕事はオート三輪(三輪トラック)の開発である。自身の設計チームと後輩の持田勇吉氏(後の三菱自動車副社長)のチームの計40名で作業は始まった。

この仕事は三菱重工にとって戦後の本格的再建の始まりだった。久保さんは部下に対して「三菱の航空機技術者はいま分散されているが、必ずや他日これらが統合されてこそ、真の力を発揮しうるのだ。その時が来るまで待とう」また「設計にあたっては、航空機もオート三輪も原理原則は一緒だ。極限まで追求せよ」と繰り返し話したという。翌年三輪トラックTM3型、通称「みずしま号」は完成し、関西地方を中心に戦後の復興の物流を支えた。

みずしま号(TM3DT)

持田氏によると、久保さんは1950年に6ケ月にわたり(船旅片道約2週間を含む)アメリカ各地の自動車工場を視察した後、将来についてこう語っていた。「自動車事業をやるのなら、会社のトップの頭の切り替えを先決とする。そして企画、開発、販売、購買、経理、生産、勤労に至るまで、大衆を目標とする見込み生産事業に全力を傾けなければならぬ」しかしそれでも、国からの受注を前提とした企業体質は簡単には変わらなかった。その後の自動車事業でも、グループ企業からの受注を前提に採算を計画するなど、受け身の体質はなかなか消えなかったという。

―― 航空機製造の解禁

戦後しばらく、日本の航空機技術者たちは活躍の場を失い、多くが自動車などの機械産業へ散っていった。しかし、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復して航空機の製造が可能となった。久保さんはこの時、技術部長として航空機や自動車の技術方針全般を統括する立場となる。さらに1961年には名古屋製作所に戻り、名古屋航空機製作所所長に就任する。そこではロッキードF104の国産化や戦後初の国産旅客機YS-11の開発、製造に関わった後、三菱独自のビジネス機MU-2の開発、製造に至り、念願の航空機製造の復活を果たした。特にMU-2の開発では、彼が設計したキ-83の設計図が参考にされたり、主翼の設計では具体的な関わりをもったという。

MU-2    (画像提供 : Bill Larkins / Wikimedia Commons,CCBY-SA 2.0)

―― 地味なデザインと自動車事業の低迷

久保さんが航空機の開発に携わっている間、自動車事業本部では乗用車の開発が開始され、1960年発売の三菱500をかわきりに、コルト600、コルト1000デボネア、コルト1500が次々と発売された。この頃はマイカーブームと呼ばれ、日本の家庭にクルマが急速に普及し始めた時代だった。しかし三菱の場合、商用車が比較的堅調だったのに対し、乗用車の販売は伸び悩んでいた。

その要因は色々あるが、デザインの魅力のなさが一因だったと考えられる。アメリカ人デザイナーを起用した高級車デボネアを除けば、三菱車のデザインは総じて地味でコンサバティブな傾向が強かった。クルマが急速に普及し、メーカー間の競争が激しくなるなかで、デザインの良し悪しは商品力、ひいては売れ行きを大きく左右する要因になりつつあった。しかし三菱には、優秀な元航空機エンジニアはたくさんいたものの、デザインの人材は少なく、かつ未熟であった。自動車事業の採算は厳しく、その将来には暗雲が立ち込めていた。

コルト・ギャランが登場する前の三菱の主力車種 コルト1000(左) コルト800(右)

―― ”口紅から機関車まで” との出会い

私は、久保さんについて調べる中で、久保さんのご子息、久保けん氏から種々お聞きすることができた。彼の思い出の一つとして、小学校高学年の頃、家に「口紅から機関車まで」という本があった事を憶えておられた。著者のレイモンド・ローウィは、アメリカで活躍した世界的なデザイナーで、インダストリアルデザインのパイオニアである。この本の日本語版は戦後日本でも大きな話題となり、国内でインダストリアルデザインという概念が世の中に認知されるきっかけの一つとなっている。

その原題は”Never Leave Well Enough Alone”である。この言葉はなかなか含蓄がある。直訳すれば「そこそこ良いものをほったらかしにするな」であり、意訳すれば「これで良いと思って満足するな」である。これは正に久保さんがそれまで情熱を傾けて実践してきたことに他ならない。航空機の設計でとことん理想を追求した彼は、この言葉に強く共感したことだろう。

口紅から機関車まで

ローウィは、機関車、自動車、船舶、家電製品など幅広い工業製品で、それまでの装飾性を廃し、合理的な技術と洗練されたスタイリングを両立させ、新しい製品へと結びつけるという、近代的なデザイン思想を特長としていた。また彼が提唱したデザイン理論「MAYA(Most Advanced Yet Acceptable)(最も進歩的でありながら、なお人々に受け入れられる範囲にとどめる)」は工業デザインと市場との関係性を説いたものだった。この本に記された考え方は、後年の久保さんのデザインに対する姿勢とかなり共通しており、彼は開発者としてのデザイン哲学をこの本でいっそう深めたのではなかろうか。

―― ふたたび自動車の開発へ ――

―― 苦心の乗用車開発

1963年、久保さんは常務取締役になると共に、オート三輪の開発以来再び自動車事業に復帰する。この時55歳である。最初に関わったのは水島製作所で開発されたコルト800であった。しかし、そのデザインは当時、水島製作所の嘱託デザイナーとして全車種のデザインを取りまとめていた金子徳次郎氏によるもので、これには久保さんはあまり口を出さなかった。

次に取り組んだのは名古屋製作所で開発された本格スポーツカー、コルトスポーツであった。日本が本格的なモータリゼーション時代に入りつつあったこの頃は、モータースポーツが社会的な人気となり、各社からスポーツカーが続々と発売されていた。積極果敢な久保さんのことだからその波に刺激されたのではないだろうか。若手の三橋慎一さんをチーフデザイナーに抜擢し、デザイン開発を進めたが、そのデザインが完成したところでプロジェクトは中止となった。まだ自動車事業そのものが軌道に乗っていない状況で、投資のわりに販売台数の少ないスポーツカーはリスクが大きいと、恐らく判断されたのだろう。その一方で、これが世に出ていれば・・・という声も社内にはあった。

その後久保さんは、トヨタ・カローラ、日産・サニーの爆発的な売れ行きの陰で販売不振の大衆車、コルト800系の後継車に取り組む。いまだ社内デザイナーが育っていない状況を背景に、1966年、当時世界を代表するカーデザイナー、イタリアのジョルジェット・ジュジャーロ氏にデザインを依頼。久保さんはこの年のトリノショーで発表されたジュジャーロ氏デザインのフィアット・ヴァネッサを気に入っていたといわれている。

トヨタ・カローラ
日産サニー

この時ジュジャーロ氏は、カロッツエリアのギア社から独立し、宮川秀之氏やエンジニアのアルド・マントバーニー氏らと共に自身のデザイン会社を立ち上げる直前だった。その会社は、従来のカロッツェリアのようなプロトタイプ製作や少量生産を中心とする会社とは一線を画し、量産車のデザイン、設計、試作、さらには金型製作までを総合的に請け負う、世界初の自動車総合デザイン会社だった。久保さんはその動きをいち早く察知し、開発を委託したのだ。しかもそれは、2ドアと4ドアのセダン、クーペの3車種を展開する大掛かりなものであった。翌年にはセダンのプロトタイプが完成し、宮川秀之氏の奥様の実家が所有するトリノ郊外の山荘で久保さんへのプレゼンテーションが行われ、計画は順調に進んだ。

カースタイリング特別号「GIORGETTO GIUGIARO」の宮川秀之氏による記事に掲載された
コルト800後継車のプレゼンテーション写真 (左端を久保氏としたキャプションは誤りで、右端が久保氏)

―― コルト・ギャランのデザイン

一方この頃、同じく販売の振るわないコルト1000系の後継車(後のコルト・ギャラン)も平行して開発が始まった。久保さんはそのデザインもジュジャーロ氏に依頼する一方で、社命によりカリフォルニアのデザインカレッジに留学し、帰国したばかりの三橋慎一さんにも社内案の制作を指示した。こうして、二人によるデザインコンペが行なわれることとなった。この二人は年齢こそ同世代なのだが、ジュジャーロ氏は既に幾多のコンセプトカーや量産車を手掛けてカーデザイン界のトップに君臨していたのに対し、三橋さんが手掛けたのは前述の幻のスポーツカーのみであり、そこには経験と実績に大きな差があった。しかし久保さんはジュジャーロ氏の実力をあてにする一方で、このコンペで三橋さんを中心に、社内デザイナーが成長することを願っていたとも思われる。 

その後、イタリアから送られてきたジュジャーロ案はヨーロッパ調のエレガントなデザインで、第一次のモデルとしては非常に完成度が高く、あきらかに一日の長があった。一方の社内案は前進感のあるウエッジシェープのデザインで力強さがあったものの、いかにも粗削りだった。

デザイン検討会で幹部たちはこぞって完成度の高いジュジャーロ案を推した。しかし久保さんが選んだのは社内案だった。

社内案はその後、久保さんの指導とそれに応えるチームの献身的な働きの中でリファインを重ね、見違えるように洗練され、コルト・ギャランとして発売に至った。クルマは大ヒットし、三菱重工の自動車事業はようやくここで軌道に乗ったのであった。

コルト・ギャラン

当時、ジュジャーロ氏はいすゞやマツダ、スズキにもデザインを提案したが、それらは基本的にはそのままデザインが採用されており、三菱がデザインを依頼しながらそれを採用しなかったのは珍しいケースだったといえる。それは、久保さんの頭には、ジュジャーロ氏のデザインを必要とする考えの一方で、この機会に社内のデザイナーを成長させたいという思いがあったからだろう。それは、幼い頃に親元を離れ、常に自立心を大切にしてきた久保さんならではの判断ではないだろうか。

結果的にコルト・ギャランはそれまでの三菱車の地味なデザインイメージを払拭してヒットし、そこから力強さを特徴とする三菱車のデザインアイデンティティが生まれ、さらには社内デザイナーが実力を付けたことを考えれば、これは最高の結果といえよう。もし久保さんが、この時ジュジャーロ氏のデザインを採用していたなら、そこまでの成果は生まれなかっただろう。その意味で、この久保さんの判断は、その後の三菱自動車にとってかけがえのないものだったといえよう。

この頃、久保さんはデザイナー達にこんな言葉を投げ掛けた。「サラリーマンである前に、デザイナーであれ」この言葉は重い。三菱重工のような大会社にあっても、組織の一員である以前にプロとしての自覚と自立性が大事ということであり、これは上に立つ者が部下に対して簡単に口にできる言葉ではない。これは久保さん自身が技術者としての心を大切にしていた証だといえよう。

―― 苦難の時 ――

―― 上司との対立

1960年代後半、日本は自動車輸入自由化の時代を迎えようとしていた。通産省は国内自動車メーカーの統合を呼びかけ、三菱重工はいすゞ自動車との業務提携の話を進めていた。しかしその一方で、当時フィクサー的な存在で知られた白洲次郎氏から牧田與一郎よいちろう副社長個人にアメリカの大手、クライスラーとの大型提携話が持ち込まれた。牧田氏は自動車事業部長の久保さんを含め、社内には内緒でクライスラーとの折衝を独断で進めた。その結果、いすゞとの提携を進めていた河野文彦社長(かつて久保さんの直属の上司)や久保さんとその後対立したのだった。

牧田氏は三菱商事出身で、並外れた行動力の持ち主だったが、激しい気性で、気に入らない相手と喧嘩の絶えない人だった。商事時代、海外赴任から帰任した際の歓迎会で、以前から折り合いの悪かった人事部の幹事を2階から投げ飛ばしたという荒くれ者である。今ならパワハラとして許されない行ないだが、上司はその将来に期待したのだろうか、彼を三菱重工に送り込んだ。三菱重工では、優れた商才と豊富な海外経験を活かし、キャタピラ三菱など様々な外資との提携を実現。そこから「らしゃめん(外国人相手の娼婦)お牧」と揶揄されることもあった。しかし抜群の実行力の反面、喧嘩っ早い性格は変わらず、多くの敵を作ると同時に強い支持者を味方に付けた。

この時の牧田氏と久保さんの対立についてご子息の久保健氏は次のように語っている。「牧田さんは自分の子分を作ろうとする人でしたが、父はそうした関係が嫌いで耐えられなかったようでした」というのは、久保さんが元々いた航空機設計の職場は、常に新しい技術を追求する仕事柄から、年齢や入社時期などの序列に関係なくものごとを進める気風で、自由闊達な環境だったのだ。

 ある日、久保さんは学生時代からの友人、平山廣次氏にぽつりと漏らした。

「オイ平山、おれは辛いよ」

久保さんは心身ともに疲労困憊してノイローゼとなり、それを見かねた製品開発部長の持田氏(久保さんと共に三輪トラックを開発)は、久保さんの片腕の部下と共に彼を寿司屋にさそい、この際休養することを勧め、翌日から久保さんは入院、長期休養となった。1968年10月のことだ。社内では、「久保さんは牧田さんにやられた」との噂が飛び交っていたといわれる。

―― 休養中の開発中止

前述のコルト800系後継車の開発がピークを迎える中、1969年3月、開発は突然中止となった。持田氏によると、それはその時社長に昇格した牧田氏の判断で、このスタイルでは国内販売は困難である等の理由だったという。そこには、提携を進めるクライスラー側の意向が働いていたようだ。確かにこのデザインは、常に目新しいものを求める60年代のアメリカ人の好みからすれば、食指の動かないものだったのかも知れない。実際、イタルスタイリング社の宮川氏によると、牧田社長や提携先のクライスラーの面々はこの車のデザインを評価していなかったとしている。

それまでに相当な費用と工数がかかっており、会社にとっては大きな痛手だった。その一方、開発中止にもかかわらずイタルスタイリング社には契約通りの満額報酬が支払われ、後に宮川氏は、三菱重工の誠意を感じたと語っている。設立間もないイタルスタイリング社にとっては、その後の経営に弾みのかかる結果だったといえよう。

因みに久保さんは、このコルト800系後継車のジュジャーロ氏のデザインが出来上がった時、その良い所を、その時開発途中であったミニカ’70に採り入れるよう指示した。そのデザインは、嘱託デザイナーの金子徳次郎氏が取りまとめていたのだが、久保さんはそれでは不十分だと考えていたようだ。大幅な見直しの結果、ミニカ’70のデザインは一段と洗練され、軽快でクリーンなイタリアンスタイルに仕上がった。これはレイモンド・ローウィのいう “Never Leave Well Enough Alone”(これで良いと思って満足するな)を思い起こさせる。こうして完成したミニカ’70は、コルト・ギャラン発売の5ケ月前に登場し、軽乗用車初のハッチバックの採用も追い風となり、3年3ケ月で45万台を売る大ヒット作となった。

ミニカ ’70

―― 牧田與一郎氏のその後

牧田氏の社長就任2ケ月後、久保さんは体調を回復し、7ケ月ぶりに本社で技術本部長として復帰した。しかしそれは自動車の開発に関わるポジションではなかった。つまり、牧田社長によって自動車事業から外されてしまったのだ。

頂点に上り詰めた牧田氏であったが、社長就任2年目の1971年、すい臓癌で急逝。まだ68歳であった。牧田氏は大の酒好きで、20年以上足しげく新橋や赤坂の料亭に通い、内々の相談に加え、芸者遊びをしていたことは良く知られていて、激務と酒席に満ちた生活であったと思われる。

牧田氏は三菱重工のそれまでの官需に依存した殿様商売的な体質を改める改革を行ったことは功績だといわれている。かつては三菱に働く人を「三菱紳士」と呼ぶことがあったが、戦後の復興で世の中が一気に成長へと転換する中では、そうした上品さはむしろ災いしていた。当時は巨大な組織を多少強引でも作り変える強いリーダーが必要だったのだ。また彼が主導したクライスラーとの提携は、三菱にとって契約上不利な一面もあったとされるが、それでもその後三菱自動車がカーメーカーとしての開発力を付け、北米やオーストラリアへの輸出を延ばすきっかけとなり、この協業の価値は非常に大きかったといえるだろう。

牧田氏は、強い個性と実行力で組織を動かす商売人だった。一方の久保さんは理想を掲げ、自ら先頭に立って周囲を導く人だった。しかしそれ以前に、二人は単に反りの合わない者同士だったのかも知れない。

三菱重工とクライスラーの調印式 牧田社長(左) ジョン・リカルド社長(中央)

―― デザインにこだわる新社長 ――

―― 三菱自動車の発足

戦後の久保さんの足跡を振り返れば、終戦直後にオート3輪を開発した後、時代の変動とともに航空機事業再開の役割を担い、次に自動車事業が本格化すると、本部長としてその舵取りを任された。当初、コルトスポーツ、コルト800後継車では苦い経験を味わったものの、続く、ミニカ’70、コルト・ギャランでは大きな成功を収めた。しかし牧田副社長との対立が元で休養を余儀なくされ、その後は自動車部門とは少し距離をおく技術部門に席を置いていた。

1970年、自動車事業部は三菱重工から分離され三菱自動車が誕生する。持田氏によると、これはクライスラーが三菱に出資、提携する際に自動車部門を三菱重工から分離することが条件だったとのことである。その3年後、久保さんは三菱自動車の2代目社長となる。病に倒れてから実に4年7ケ月が経ち、この間にコルト・ギャランGTO、ギャランクーペFTO、初代ランサー、ニューギャラン、ミニカF4などが開発されていた。

―― ギャラン・シグマの開発スタート

ここで話は新社長の久保さんが岡崎の第一技術センターの意匠課でデザイナー達へ檄をとばしたところに戻る。

「これからは俺がデザインを決める、デザインは俺に任せろ」の言葉でデザイナー達に活を入れた後、久保さんはかつてコルト・ギャランのデザインをまとめた三橋さんに「三橋君、君はいま何をやってるんだ」と尋ねた。三橋さんが「いまはインテリアデザインの取りまとめをやっています」と答えると、久保さんは二村意匠課長に、その時始まろうとしていたギャラン・シグマのエクステリアデザインに三橋さんを参加させるように指示。同時に初代ギャランの時と同様にジュジアーロ氏にデザインを依頼するよう指示した。この時三橋さんは36歳だったが、既に現場から離れ、管理職の立場にあった。同世代のジュジャーロ氏がまだバリバリの現役であったのに対し、それはインハウス(企業内)デザイナーの宿命であった。

課内ではできる限りのエクステリアデザイナー、私の記憶では15名ほどを集めてアイデアスケッチを描き、いくつかのステップを経てそれらを絞り込み、最終的には三橋さんのスケッチが選ばれて1/1モデル化することとなった。そのデザインはコルト・ギャランのデザインを正常進化させたもので、私にもうなずけるものであった。因みにこの時私のスケッチは、ごく初期段階でドロップとなり、つくづく力不足を感じたものだ。

その後イタリアから届いたジュジャーロ氏の提案モデルは、シャープでキリっとしたデザインで、ベルトラインが”C”ピラー近くでキックアップした処理からは、初代コルト・ギャランへの敬意が感じられた。一方で三橋さんのスケッチをベースとしたモデルも初代からの進化をテーマとしていたはずだったが、完成したモデルは何故かスケッチにあったシャープでスポーティなイメージはなくなり、デザインの要素は同じなのだが、雰囲気は高級車然としていて、似て非なる出来上がりだった。

―― 首を縦に振らない久保さん

さて、コルトギャランの時と同様に、再び三橋さんとジュジャーロ氏の対決となったものの、久保さんはどちらのモデルにも関心を示さず、ジュジャーロ氏への依頼はそこで打ち切りとなり、開発は仕切り直しとなった。想像するに、久保さんにとって、一目見て美しい、これならいける、と心に響くものがどちらの案にもなかったのだろう。

その後3つのチームで都合7台の1/1モデルが作られたが、久保さんは全てを却下。この頃の久保さんの言葉は厳しかった。「だいたい君たちはセンスが悪い、もっと良いものを見て勉強しろ」「田舎芸者の厚化粧みたいなクルマは駄目だ」「こんな田舎でやっているから、ろくでもないもんしか出来ないんだよ」とボロクソだ。この地にデザインスタジオを作ったのは久保さん自身だが、そんなことを誰も言い返せるはずもない。

二村課長を始めとして責任ある立場の人達は戸惑うばかりだったが、ヒラの私は社長のべらんめえ調のもの言いに何故か親しみを感じるのだった。意匠課にデザインの救世主が現れたと思ったのも束の間、今度は生みの苦しみを味わうことになった。

デザインの方向が全く定まらない中、「三菱のデザインは、単純明快かつシャープだ」「俺はクーペみたいなセダンが欲しいんだよ」といった具体性のある言葉も飛び出して、久保さんが何とかこの壁を乗り越えたい気持ちも伝わってきた。

デザインに指摘をする久保社長

―― 貝淵さんの独断

このころ、久保さんのダメ出しが続いたせいで開発日程はすっかり遅れていた。開発日程というものは、我々の仕事では法律にも等しい絶対のルールである。それを社長自らが平気で無視してしまうのだから、我々現場は、「一体どうするつもりなのか」と半ばあきれながらも、ひたすら頑張るしかない。しかしデザインに責任のある立場の方々には後に続く部門から相当なプレッシャーがかかっていた。

そうした中、次のデザイン案を皆で模索している時、ベテランの貝淵龍さんは独自にテープドローイングを始めた。それは決められた基本レイアウトを無視し、ルーフを大胆に下げ、前後のウインドウを強く傾斜させた「クーペみたいな」デザインだった。基本レイアウトとは、商品企画に基づいてエンジン、サスペンション、インテリアスペース、トランクスペースなど、あらゆる車体の構成要素を決めた立体的ガイドラインで、開発の大前提である。デザイン部門はそれを守ってザインをまとめるものだが、彼は久保さんが求めているものを感じ取ったのだろう、その一線を超えてしまった。

貝淵さんは富山の高岡工芸高校卒で、何時も地味な服装をしたカッコを付けない人だ。デザインについて多くは語らず、黙々と仕事をし、思い切りのよいデザインを提案する実力派である。彼の作業を見ていた何人かが「これぐらいやっても良いんじゃないか、これでイメージモデルを作ってみよう」ということになり、廃案になったモデルを改造し、突貫工事でモデル化した。

次の機会に久保さんがスタジオにやってくると、基本レイアウトを守った案には目もくれず、端の方に置いてあった貝淵さんのモデルを目ざとく見つけ、「これが良いね、これをベースに進めたらどうかね」とコメント。その瞬間、目指す方向が定まり、誰もがこれでようやく先が見えたと思ったのである。

三橋さんは後に、「この時は競合車のコロナやブルーバードのようにしっかりとした居住性のあるセダンにしなければいけないと考えていた」と振り返っている。久保さんはかつて「サラリーマンである前に、デザイナーであれ」と言った。上から与えられた条件をそのまま無条件に受け入れてまとめるのは、久保さんが期待するデザイナー像ではなかったのだ。それに応えて既成概念を打ち破ったのが貝淵さんだった。

―― ディテールへのこだわり

3チームで進めていたシグマのデザイン開発は、その後中川多喜夫さんをリーダーとするチームで仕上げることになった。全体を中川さんがまとめ、フロントを私、リアを片山松夫さんが担当。一方で大きな貢献をした貝淵さんは、その時既に開発が始まっていたラムダの担当となり、その後彼の案が採用されることになる。

さて、私はそれまで中川さんがデザインした、どちらかというと高級車イメージのモデルのフロントを担当していたので、『今度はまるで方向が違うな』と少々戸惑った。そしてデザインのアイデア出しに取りかかった時、久保さんの言葉「三菱のデザインは、単純明快かつシャープだ」に触発されて降りてきたのが、ボンネット先端が前にせり出した逆スラントノーズだった。ノーズの先端に向かってフロントグリルが波の裏のような凹面で繋がるデザインだ。貝淵さんのデザインした原案はスラントノーズだったが、全体のフォルムからしてこうあるべきと閃いたのは逆スラントだった。後から振り返れば、それは久保さんという強いリーダーに共感し、彼が目指しているものを強く意識した結果だったように思う。

このデザインはフロントコーナーランプがサイドに大きく回り込んだラップアラウンド処理を新しい特徴としていたが、完成したモデルを見るなり久保さんは「おお、ラップアラウンドだな!」と反応した。私は、社長の彼が世界のカーデザインのトレンドを頭に入れていて、この処理を知っていることに驚いた。

その後このランプが部品メーカーで量産に向けた作業が進んでいた時、久保さんからディテールの修正指示があった。それはフロントからサイドにかけての流れをもう少しスムーズにという指摘で、私も納得がいった。しかし、日程は既に遅れていた上に、それは年末ギリギリだったので、上司は労働組合に出向いて、頭を下げて正月出勤の了解を取付けなければならなかった。私は正月返上で出勤し、ほんの数ミリの修正のために図面を描き直したのだった。久保さんの指示ぶりは、社長というより現場のチーフデザイナーそのものだった。

わずかな修正を経て完成したコーナーランプのモデル

その後久保さんが雑誌カーグラフィックのインタビューで語った言葉がある。「最初決めたデザインが悪かったら、永久に何万、何十万台と悪い車が出てくるのだから、最初が無限に重要なのだ」

ギャラン・シグマはコルト・ギャランを上回るヒット作となり、平均年間販売台数147,315台は三菱としての新記録であった。

ギャラン・シグマ
ギャラン・シグマ開発時の競合車 トヨペット・コロナ(左)日産ブルーバードU(右)

―― 創造こそ生きがい

シグマのデザイン開発で久保さんはジュジャーロ氏の案を含めて都合9案を却下した。これはなかなかできることではない。もちろんデザイナーの力が足りなかったからといってしまえばそれまでだが、普通のトップなら4~5案を前にすればどれかを選ぶのではないだろうか。それだけの駄目出しが出来るのは、自分の追い求めるデザインの理想がしっかりとあり、その判断基準が彼の中で磨かれていたからだろう。

久保さんが社長業という多忙な仕事の中で東京田町の本社から岡崎市まで足しげく通い、デザインを主導した結果が実を結び、三菱デザインの黄金期が生まれた。この頃の三菱車デザインは、何よりも他車にない独自性を持っていた。それは久保さんの熱量がデザイナーに伝わり、デザイナーたちの創造力が最高に発揮された結果だといえる。本来こうした役割はチーフデザイナーやデザイン部門のトップが担うべきものだろう。厳しく言えば当時そうしたポジションにあった人の力が足りなかったといえるかも知れない。しかし、久保さんがその熱意を伝える力は特別だった。

久保さんはこんなことも言っている。「人間が動物と違うところは創造することだ。自然界にそのままでは存在しないものをいかに創り出すかにある。経営、技術、事務管理あらゆる面で創造を求めるところに人間の生き甲斐がある。『先例に従う』という言葉は大嫌いだ」

―― 久保社長を取り巻く空気

私は久保さんがデザインスタジオを訪れる際の様子を思い出す。彼がやってくるとなると、その準備で前日から責任ある立場の人たちの間にはちょっとした緊張感が出始める。いざ久保さんが東京から到着し、意匠課の中に入ると彼らの表情と動作から緊迫感が生れ、それはあっという間に周囲に伝染する。久保さんがスケッチや提案モデルを見て何を言うかは全く予想できず、予期せぬ厳しい指摘にデザイン部門のみならず関連部門の人たちがあたふたすることはよくあった。

社長であるがゆえに久保さんの話はほぼ一方的かつ絶対的であり、誰かが異論をはさむという状況は私の記憶の限りほとんどなかった。さらには久保さんが部分的なデザイン処理にこだわるあまり、デザイナーの意図を尊重しない場面もあった。それゆえ、本来自由闊達であるべきデザインという創造の場で、そうした進め方は良くないと考えるデザイナーもいたのは事実だ。

ある時、髭を生やした若手デザイナーを目に留めた久保さんは、そばにいた部下を通して「その髭はデザインと何か関係があるのか?」と一言皮肉を伝えたことがあった。70年代当時はアメリカに発するカウンターカルチャームーブメントのヒッピーが日本にも伝わり、若者が髭を生やすのは、協調性がなく反抗的な印と見られる風潮がお堅い会社にはあった。しかし、そのデザイナーは髭を剃ることはなかった。後に彼は髭を生やしたままデザイン本部長となり、さらには欧州三菱自販の社長を務めるに至った。

久保さんの頭には、まだ戦前世代の価値観が残っていたのだろう。しかし、そうした空気の中でも、新しい世代のデザイナーは育っていった。

―― シグマに続くデザイン開発

シグマの後には、ラムダミラージュスタリオンなど続々とプロジェクトが続き、久保さんはシグマの時と同様に却下と駄目出しを繰り返し、デザイナー達を苦しめ続け、混沌とした状況の中で、最後は選りすぐりのデザインが生れ、それが磨き抜かれていった。

スタリオンの開発では、やや丸みを帯びたリアのデザインを見るなり「こんなナマズみたいなのはダメだ!」と厳しく指摘したこともあった。デザインの良し悪しの判断は一瞬だ。しかし、その一瞬の判断の後ろには、生まれついてのセンスと、常日頃鍛えた審美眼があったことだろう。

シグマのデザインを進めていた時、既に基本デザインが固まっていたランサー・セレステの場合は、久保さんはリアピラーの処理を前傾から後傾に大変更させたことがあった。それまでデザインを主導してきた二村課長からかなりの抵抗を受けたが、譲ることはなく、その判断も瞬時だった。

久保さんのこだわりはデザインだけには留まらなかった。カーグラフィック誌のインタビューでこう語っている。「カタチだけよくてもなんの意味もない、技術に裏付けられたスタイリングでないと」「スタイリングのためのスタイリングは意味がない」「技術的制約の下にあって、しかも人が見て愉しいと思うカタチを創り出すところに我々の仕事の面白みがあるのだ」実際のところ久保さんは技術に対しても高いレベルを要求した結果、多くのクルマが成功したのだった。

1979年に久保さんは会長になり、その頃開発していたスタリオンがおそらくデザインに深く関わった最後の車だった。それはクライスラーにも供給するスポーツクーペだったので、関心が高かったのだろう。一方で、ほぼ同じころに開発されていたトレディア、コルディア、初代パジェロのデザインにはほとんどノータッチであった。

この頃、久保さんが先頭に立ち続けたデザイン開発は、次のステージへと移ろうとしていた。

ギャラン・ラムダ
ミラージュ
スタリオン

―― 黄昏 ――

1983年、久保さんは会長を退いて相談役となる。仕事からかなり解放されて自分の時間が増える中、ゴルフ、囲碁、家庭園芸、国内外の旅行を楽しみ、自然、歴史、文化などへの関心を深めていった。毎年一回世界の古代遺跡に出かけ、中国の始皇帝陵、敦煌、ギリシャのパルテノン神殿、ネパールの釈迦生誕の地ルンビニなどを訪れている。

これはご子息から聞いた話だが、この頃久保さんは宗教について広く学び、キリスト教については評論家の山本七平、仏教については宗教学者の中村元の話を聞き、禅やイスラム教についても知識を深めていった。特に仏教については、ご息女と共にインドからネパールにかけて釈迦の足跡を1,500kmの行程で辿った。この時80歳である。

久保さんらしく、とことん宗教を深掘りしたが、どの宗教にも共通するのは、道徳の大切さであることと欲を捨てることだと理解した。しかし、欲を捨ててしまうと資本主義は成り立たないので、結局のところそれ以上宗教に深入りすることはなかったとのことだ。

1989年に肝臓の手術で入院し、その後入退院を繰り返した。三菱で長年苦楽を共にし、家族ぐるみの付き合いのあった持田氏は、一緒に郊外に出かけ散歩されたという。

「畦みちに 野菊残して 稲刈らる」

久保さんの遺した俳句である。開発者としての役目を終え、そこから離れていく寂しさ

の中で、畦道に残された野菊に心惹かれる心情がみてとれる。そこには、2年前に先立たれた奥様への想いも重なっていたのかも知れない。私は彼について深く調べるまで、俳句を嗜まれていたとは知らず、意外であったと同時にその心の豊かさを感じた。

1990年、久保さんは82歳で亡くなられた。後に三菱重工のOB達が出版した本、「大江随想」で持田氏が久保さんを振り返った言葉を紹介しよう。

「思うに、久保さんは、人間味あふれる方で、接する人は皆その人柄の深さと温かさに魅了され、人の心をひきつける豊かさを持った偉大なひとであった。また常に理想を描き、そのロマンを実現されたまことに幸せな生涯を過ごされた方であったと思う」

2009年、久保さんは長年にわたる功績を高く評価され、日本自動車殿堂入りを果たし、ご子息が代わりにその栄誉を授かった。

――家庭人としての久保さん

ご子息の久保健氏は元物理学者で、久保さんとは異なる道を歩まれた。その健氏から伺った家庭での久保さんの姿を紹介しよう。

久保さんは家庭を大事にする良き父親であった。三菱500が発売されるより前のころだが、会社から貸与されていたフォルクスワーゲン・ビートルで、休日にはよく家族をドライブへ連れて行ってくれたという。子供は家事を手伝うものとの考えから、健氏は玄関の掃除をやらされていたが、それ以外では自分の考えを子供に押し付けるようなことは一切なかったとのことだ。格式ばったことは嫌いで、形式にこだわらず、常に実質を大切にする人だったという話は、私が知る久保さんの姿とも重なるものだ。

健氏は母親から「出世して幹部となった後も、我が家の暮らしはつつましかった」との話を聞いたことがあった。それは、久保さんは長年にわたって世話になったお兄さんと田舎の母親に仕送りを続けていたためだ。私は、久保さんが恩義を生涯大切にする人だったことをここで改めて知った。

「何時も元気な人でしたが、仕事でノイローゼになった時は、父の繊細な一面を見た気がしました」との思い出からは、家族で久保さんを心配した様子が伝わってきた。

健氏の話の中でとりわけ久保さんらしさを感じたのは、お姉さんのピアノを買った時のことだ。久保さんは高級メーカー品は避けて、比較的安価に製作してくれる工房を見つけ、アップライトピアノを注文した。その下見に訪れた際、鍵盤脇の脚の直線的な形が気に入らず、自分で図面を引いてカーブの付いた脚に変えてもらった。家庭の中にあっても、彼のデザインへのこだわりは少しも変わらなかったのだ。

「晩年は母と一緒に俳句を習って愉しんでました。また故郷の愛野村のことをとても懐かしんでいましたね」健氏の話は、穏やかな晩年の父の姿で締めくくられた。

―― 久保さんが遺したもの

良いデザインが生まれるためには、当然良いデザイナーが必要だ。しかし、企業という組織の中ではそれだけでは足りない。一応はまとまっているが平凡なデザインや、デザイナーの個性だけが先走ったデザインを却下して、もう一段上のレベルへとデザイナーの力を引き出す人物が必要だ。それが久保さんだった。次々と提案モデルを却下して、納得のいくものが出来上がるまで決して首を縦にふらず、デザインを見極める姿勢だ。

彼がデザインに深く関わった機種では多かれ少なかれ開発日程が遅れ、デザインの後に続く設計、試作、実験、生産など様々な行程では、その挽回のために相当な苦労をした方々はきっと数多くいたに違いない。それでも、それらのクルマが市場で成功し、結果として企業価値が高まったことは確かである。

世に中にはこれまでに数えきれないほどのクルマが生み出されてきたが、見極めが甘いまま世に出され、結果として市場に埋もれていったクルマは少なくなかったのではなかろうか。とはいえ、経営者でありながらデザインのリーダーという存在は、製造業の中ではある意味理想的だが、それはめったにないことだろう。一方で、優れたデザインセンスを持たない経営者が権限を背景にデザインに介入すれば、かえって商品性を損なうリスクがあることは否めない。

私は数年かけて三菱車の個々のデザイン開発の歴史を調べる取り組みを始め、そこから久保さんがデザイン開発に果たした役割の特別さに気付いた。こうして久保さんの足跡を掘り下げてみて、改めて彼のデザインに対する姿勢の大切さを理解した。振り返れば私自身、後にデザインを指導する立場になった時、正直言って久保さんほどのリーダーシップを発揮することはできなかった。今になって、ようやくあの時久保さんが何を見ていたのか、分かった気がする。

しかし、その姿勢は確かに後のデザイナー達へ受け継がれていった。彼から薫陶を受けたデザイナー達は、その情熱と開発者魂を誇りに思い、その気持ちが後のヒット作へと繋がっていったのだと思う。

久保さんは「より良いものを追求し続ける開発者精神」を遺してくれた。

「せいぜい課長クラスで現場の仕事をしている時がいちばん面白い。ひとつのものを自分の好きなように作ることができるのだから。そうするといくら残業してもたいしてくたびれない。一生そうしたことを続けていられれば、これは結構面白い」

これが私の好きな、久保さんの言葉だ。

会長在職時の久保氏

2026年7月

参考資料/出典:

「三菱自動車工業株式会社史」三菱自動車工業株式会社
「大江随想」三菱自動車工業株式会社名古屋自動車製作所  (久保氏を知る諸氏による著述)
菱光会「往時茫々 第2巻」三菱重工名古屋 (久保氏本人による著述 「松本時代の思い出」)
久保富夫ほか著「軍用機開発物語2」光人社NF文庫(久保氏本人による著述)
大槻文平編著「私の三菱昭和史」東洋経済新報社(久保氏本人による談話 「クライスラーとの提携秘話」)
碇義郎著「新司偵 連合軍を震撼させた戦略偵察機」サンケイ出版(久保氏への取材にもとづく考えられる著述)
「カーグラフィック1978年7月号」二玄社 (久保氏への取材にもとづく著述)
神原敬幸著「自伝飛行機家運命交響曲」 (知人による著述と久保氏本人による著述「仏陀最後の旅に想う」)
松岡久光著「みつびし飛行機物語」アテネ書房 
「世界の傑作機 100式司令部偵察機」文林堂 
レイモンド・ローウィ著「口紅から機関車まで」鹿島出版会 
宮川秀之著「イタリアンデザイン世界を走る」カーグラフィックス
カースタイリング特別号「GIORGETTO GIUGIARO」   (宮川秀之氏による著述)
清水一行著「燃え盡きる」集英社文庫         (牧田與一郎氏に関する著述)
草柳大蔵著「実力者の条件」文芸春秋         (牧田與一郎氏に関する著述)

参考ネット情報:

日本語ウィキペディア「久保富夫」
日本語ウィキペディア「牧田與一郎」

筆者による取材:

久保健氏へのインタビュー (2026年3月)
ご家庭における久保富夫氏について種々お話しいただいたと同時に、貴重な書籍や写真をご提供いただいた
ことに深く感謝申し上げます。