17歳の夢が実現した幾何学的デザイン

江口倫郎

―― 2代目ミラージュプロジェクトへの異動 

それまで担当していたミラージュⅡターボ仕様や、ミニカアミ55のデザインも一段落した81年1月、2代目ミラージュへ異動することとなった。初代と異なり最初から3&5ドアハッチバックと4ドアサルーンを展開する予定もあり、既に10名ほどのデザイナーが動員されていたが、まだデザインが決まっておらず、より多くのマンパワーが必要だったのである。

―― コンセプトの見直しとスケッチの開始 

コルト・ギャラン、初代ミラージュなど数々のデザインを主導した久保会長からの「目が見えなくなるまで頑張る!」との覚悟の言葉も届き、改めて基本から見直して進めることとなった。乗用車商品開発室を含んだ担当者で再調査と討議を行い、その結果をもとに3車種の基本的な考え方をいくつかのパネルにまとめた。

会長からの好評価も得られたのでスケッチ作業へと移った。最初は車種ごとに特化させ、デザインを変えたかったが、残念ながらコストアップ回避のため主要部分共用を前提に進めることとなった。後日、3代目シビック3車種が各々異なるデザインで発表されたときは羨ましかったものだ。

ミラージュ2代目 3車種の位置付けを図示したコンセプトマップのパネル
3車種の位置付けを図示したコンセプトチャートのパネル

デザインイメージは以前から自主的に描いていた、小型スポーツカーのアイディアが既に頭の中にあり、それを基にスケッチを進めた。評価の高かった初代を改良・発展させるというアプローチは既に前任者達が進めており、決定が遅れていた原因でもあった。そこで、基本ボディのシンプル&クリーンさ保持しつつ新しい造形を目指した。スタッフ全員で車種を分担し、スケッチから実寸大のテーピングスケッチを経てモデリングへと進んだ。

ミラージュ2代目 5ドアやワゴン&バンに特化させたデザイン提案
5ドアやワゴン&バンに特化させたデザイン提案
ミラージュ2代目 過去に描いたミラージュスポーツカーと,それをベースにした3ドアのスケッチ
過去に描いたミラージュスポーツカーと,それをベースにした3ドアのスケッチ

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ミラージュ2代目 検討を重ねるテープドローイングをその都度記録したポラロイド写真
検討を重ねるテープドローイングをその都度記録したポラロイド写真
ミラージュ2代目 初代と同じホイールベースの初期クレイモデル
初代と同じホイールベースの初期クレイモデル

―― コンペティション始まる 

私は3ドアを担当したのだが、クレイモデルが完成した時点で基本寸度が変更となった。それまで3ドアは初代と同じホイールベース2300mmで進めていたが、4ドアと共通の2380mmとなった。同時に、それまで3車種を手分けして進めていたが、3ドア車を先に決めることになり、全員でこれに取り組み短期決戦を図ることとなった。

これを機に改めて担当者全員でスケッチによるコンペティションを行うこととなった。役員にも比較検討しやすい様にスケッチの描き方が指定され、デザインコンサルタントであるアルド・セッサーノ氏に倣ってカラーキャンソンペーパーを使ったイタリアンハイライト描法に取り組み、私と他の2名によるスケッチが選ばれてモデル制作に移行することとなった。 

2代目ミラージュ モデル化された筆者のスケッチ
モデル化された筆者のスケッチ
2代目 ミラージュ リアホイールカット処理が最終モデルに生かされた筆者スケッチ
リアホイールカット処理が最終モデルに生かされた筆者スケッチ

―― デザイナーとしての思い

当時の会長のデザイン指向はシンプル&シャープに加えフラッシュサーフィスであり、これらは私の指向とも合致していたので自信をもって進めた。元々カーデザイナーを志したきっかけは高校生の時にカーグラフィック誌で見たAutonova GTだった。デザイナーのピオ・マンズー氏はバウハウスの流れを汲むウルム造形大学の出身でイタリアのカーデザイン誌Style Autoの主宰者でもあった。彼は私にカーデザインの魅力を教えてくれた人物であり、シンプルで建築的かつ幾何学的造形は私の指標となった。

2代目 ミラージュ AutonovaGT
AutonovaGT

具体的には建築におけるモジュールを取り入れ、極力要素を減らしたシンプルで合理的なパネル構成とした。先ずは基本となる3ドアのプロポーションを幾何学的に面分割していった。窓とボディとの段差を少なくするためにガラスの曲率を幾つか検討しながら基本断面を設定した。この技法は初代をデザインした大島雅夫さんに鍛えられた。初代は綺麗だが静的な印象だった。これをより動的にし、広い窓を確保するため、フェンダーサイドのデザインラインからベルトラインへとつなげた。

また、平面形状については、通常より強い曲率を採ることにより、ボリューム感を演出した。これは当時趣味で乗っていたFIAT500から学んだものだ。

2代目ミラージュ 平面形状を学んだFIAT500と2代目ミラージュ
平面形状を学んだFIAT500と2代目ミラージュ

―― アルド・セッサーノ氏のアドバイス

2代目ミラージュ 完成したA案(担当者不明) のクレイモデル
A案(担当者不明) のクレイモデル
2代目 ミラージュ 完成したB案(筆者)のクレイモデル
B案(筆者)のクレイモデル
2代目 ミラージュ 完成したC案(貝渕)のクレイモデル
C案(貝渕氏)のクレイモデル

承認会議に先立ち,アルド・セッサーノ氏が来日して各モデルの評価とアドバイスを行った。彼は主にB案を推薦し、ボンネットはバンパー上部まで延長し、サイドオープニングとしベルトラインとの連続感を出すようアドバイスがあった。これはスケッチの時から描いていたが、三菱にはこれまで無かった処理なので反対されそうであえて表現しなかった考えで、説得の苦労なしで実現しラッキー!但しスケッチの時から提案していた上部回り込みクォーターガラスは不採用となり残念。

ミラージュ 2代目 上部までクォーターガラスを回り込ませたB案モデル右側
上部までクォーターガラスを回り込ませたB案モデル右側
2代目 ミラージュ セッサーノ氏のアドバイスを記録した黒板
セッサーノ氏のアドバイスを記録した黒板

その後の会長来訪に備え、アドバイスを参考にB案をベースとして細部改修し、完成後の10月、会長が意匠課を訪れモデル承認された。バンパー上部まで延長したグリルレスボンネットは最終的には冷却性悪化と重量増加、それに伴うダンパーの追加でコストアップすることから見送られた。

2代目ミラージュ グリルレスボンネットを中心に細部を改修したモデル
グリルレスボンネットを中心に細部を改修したモデル

―― 最終承認へ至るリファイン

グリルレスボンネットの代替デザインを検討するため、再度スケッチを描いた。普遍的な格子状のフロントグリルはボディ面の流れをせき止めてしまうので、ヘッドランプと一体感のある透明アクリル製で進めていた。しかし耐久性の低さや内蔵物が見える等の欠点があり、濃いボディカラーでは別物感が出てしまう。そこでリファインにあたり、ボンネットとグリルの一体感を持たせるため、横桟の太さを漸次変化させたボディ色グリルを提案した.前例のない手法のため設計からの反対を心配したが特になく、後に発表されたルノー25にも似た処理があり安心した。

またこの段階営業部や乗用車商品開発室からの強い要求でサイドプロテクターをサイドビード部に加えた。販売時にブーメランランプと命名されたフロントコーナーランプだが、私の狙いは純粋に幾何学的な分割であった。

2代目ミラージュ 漸変横桟グリルのスケッチと完成したモデル
漸変横桟グリルのスケッチ(左)と完成したモデル(右)

ホイールカットは、C案で評価が高く、自分もスケッチ段階で検討していた台形に変更した。セッサーノ氏から欧州で嫌われると指摘のあった高めのリヤゲート下端も修正した。ゲート開口位置を低くかつ広く出来る機能を優先した横幅が狭いテールランプは個人的には好きだが商用車っぽく見えるので採用せず、C案イメージの2分割ランプで、かつゲート開口部を出来るだけ下げた案とした。バンパー上部のボディ面がスッキリして良かったが、欧州モデルではここにライセンスプレートが来てしまい残念。

   

2代目ミラージュ ゲート下端の低い幅狭ランプ案と2分割ランプ案スケッチ
ゲート下端の低い幅狭ランプ案(左)と2分割ランプ案(右)

以上の内容でモデルを改修し、問題なく会長の最終承認を得られたが、残念ながらここで米国アートセンター留学のため担当から外れることとなった。その後の生産化に向けた各部門との折衝や図面化、およびバリエーション展開は残ったメンバーに託し、試作・生産工程を経て、無事1983年秋の発売に至った。3&5ドアは初期から手伝ってくれた後藤誠さん、4ドアセダンは貝渕龍主任と青木秀敏さん、販売までのフォローは辻本悟主任が遂行してくれた。4ドアワゴン&バンは加藤万理さんが担当してくれ、三菱初の女性エクステリアデザイナーとなった。

 

―― アートセンター・コネクション

アートセンター留学中、私はキース・ティーター教授に大変お世話になった。教授はFIAT 850 Spiderを愛用するエンスージアストで、その人柄も含めて深く尊敬している。その教授が三菱サイプレススタジオのコンサルタントに就任し、この車の発売から2年後に来日された際、「良いデザインだ」と褒めてくださったことは、私にとって何より嬉しい出来事だった。そして気がつけば、大島雅夫氏(初代)、私(2代目)、ジェフ・ティーグ氏(3代目)の3人が、そろってティーター教授の教え子だったのである。

―― シンプル&シャープデザインの終焉

シンプル&シャープなデザイントレンドはこの後、角から丸へと大きく変化していくことになった。よって2代目ミラージュは自分のデザイン指向とセッサーノ氏の助言、シンプルでシャープな造形を好んだ久保会長の決断が合致した最後の機会であったといえる。なお今回、本稿執筆にあたって最初のスケッチとカタログ写真を比べると、殆ど同じデザインなのは我ながら驚いた!1年間も何をやっていたのかと思うが、高い山程一直線には登れないのである。

2代目ミラージュ 初期スケッチ(再掲)と生産車カタログ写真の比較
初期スケッチ(再掲)と生産車カタログ写真の比較

 

―― 本プロジェクトの成果

初代の様な華やかな評価は得られなかったが、3ドア&5ドアハッチバックに加え、4ドアサルーン、発売2年後にはワゴン&バンも加わり、基本構造物と主要パネルは1992年まで続くことになる。更に4ドアサルーンは細部を変更してマレーシアでプロトン社のサガとなり、前後の小変更を加えながら2008年まで生き延びた。シンプルでモジュール的なパネル構成は汎用性が高く、効率的な生産に寄与できたと思う。また量的には、プロトン車を除いた車種全体で約120万台が生産・販売され、採算面でも貢献できた様である。

mirage 2nd front & rear photo

2026年8月


若者志向と先進性を狙ったインテリア 

小林 也寸志

――ユーザーイメージは若者向け情報誌「POPEYE」の読者

1979年、私は三菱自動車へ入社し、意匠課インテリアグループに配属された。そこで最初に取り組むことになったのが、開発が始まったばかりの2代目ミラージュである。チームはリーダーの釜池主任を含め5名。平均年齢は30代半ばで若さとスピード感を備えた体制であった。新入社員の私にとって新車の開発初期から関われたことは、極めて幸運であった。

最初にブレインストーミングを行い、ユーザー像の明確化を図った。想定したのは当時の若者向け情報誌『POPEYE』や『Hot-Dog PRESS』に象徴される層で、欧米志向のライフスタイルに憧れ、テニスやスキー、ダイビングといったレジャーを楽しむ若者たちである。当時23歳だった私自身も、その典型的な1人であった。

2代目 ミラージュ 初期コンセプトパネル

――「レス・バルキー、モア・ルーミー」の継承

インテリアのデザインテーマは初代ミラージュの「レス・バルキー、モア・ルーミー」の継承で、限られたボディサイズの中で最大限の開放感と実用性を確保するコンセプトである。このテーマに基づいて実寸大のテープドローイングによる検討に着手した。

基本レイアウト図の上に透明フィルムを重ね、細いデザインテープでインパネやドアトリム、シート形状を描く。さらにその下に色紙を差し込んで色付けし、レイアウトを検討した。またテープドローイングの横には、ターゲットイメージを象徴するスポーツウェアに身を包んだ若い女性のパネルを配置し、インテリアのイメージを把握しやすくした。現在のデジタル手法とは対照的な手作業の工程であるが、当時はこれが三菱で標準的な方法であり、フィルムのしわと反射に手こずりながら、室内空間の手応えをつかんでいった。

2代目 ミラージュ パッケージ検討テープドローイング

―― 初期インパネモデルの製作

インパネは、室内への突出を可能な限り抑えながらメーター周りのコンパクト化を徹底し、さらに将来を見据えてデジタルメーターや新しい操作スイッチの採用を前提とする方針をチームで共有した。

数多くのアイデアスケッチを作成し、絞り込んだ上で、最終的には私がデザインしたA案と伊藤さんデザインのB案をモデル化することとなった。しかし、インパネの計画には様々な要素が複雑にからむものであり、その経験の無い新人の私には荷が重く、A案の後の工程を先輩方にお任せし、主要な操作スイッチ類のデザインを担当することとなった。

2代目ミラージュ インパネスケッチ 
インパネスケッチ 3案 A案(左)、B案(中央)、C案(右)]
2代目 ミラージュ A案インパネテープドローイング
A案インパネのテープドローイング

2代目 ミラージュ B案インパネテープドローイング
B案インパネのテープドローイング

その頃、1979年のジュネーブショーで発表されたコンセプトカー「アッソ・デ・フィオーリ」(後のいすゞピアッツァ)は、メーター両側にスイッチを配置する革新的なレイアウトで注目を集めていた。さらに三菱でも、上級車種の3代目シグマに、操作を手元に集約する「ウイングコラムスイッチ」が採用され、操作系の集約は今後の主流となることが予測された。私は、ごく簡単なスイッチ操作検討モデルを製作し、スタジオエンジニア(デザイナーをサポートするエンジニア)の協力を得てその使い勝手の検討を繰り返し、その成果をA、B両案のインパネデザインに反映してもらった。

2代目ミラージュ 操作系検討テープドローイング、スイッチ操作検討モデル、主要コントロールスイッチスケッチ
操作系検討テープドローイング(左)、スイッチ操作検討モデル(中央)、主要コントロールスイッチスケッチ(右) 

こうして出来上がったインパネ本体とスイッチ類の図面を元に、およそ3週間後、木型モデル製作会社によるインパネモデルが完成した。

出来上がったモデルは、開放感と新しさを狙ったものであったが、意匠課内での評価は厳しく、複数の幹部から他車や初代ミラージュとの類似や、新規性の不足が指摘された。予想外の低い評価に一同がっかりしたが、開発スケジュールは待ったなしであり、早急に先へと進まなくてはならなかった。

2代目 ミラージュ インパネ台上モデル 
インパネモデル  A案(左)、B案(右)

―― 先進的デザインにチャレンジ

そうした中、釜池主任から、実現性はひとまず二の次にして、より先進的なイメージを狙ったデザインにチャレンジしようと提案があり、そのデザインを伊藤さんと私が担当することになった。

私たちは、前作のデザインが不評だったので、今度はとにかく思い切り先進的なデザインを狙うことにした。それは、インパネの最大の要素であるメータークラスターをすっぱりと無くしてしまい、インパネをインテリアトリムの一部として考えるものだ。これこそ究極の「レス・バルキー、モア・ルーミー」である。そしてシンプルな基本形状の中に細長いデジタルメーターを埋め込み、操作レバーやスイッチ類はステアリングコラムの両脇にタッチ式にして配置する。これはほぼコンセプトカー並みに先進的なインパネであり、これなら新規性が足りないといわれることはないだろうと考えた。完成したモデルを意匠課幹部に披露すると「実現には色々課題はあるだろうが、大胆で新規性がある」と評価され、この方向で進めることになり、ひとまず一歩前進した。

2代目ミラージュ インテリア 方向付けモデル
先進的なデザインにチャレンジしたインパネモデル

―― 長く苦しんだ最終モデル

方向が決まったのは良かったが、その先には量産化に向けての大きな課題が待ち構えていた。というのも、この車は世界展開の大衆車で廉価な仕様もあることから、デジタルメーターとスペースを必要とするアナログメーターとを両立させる必要があり、メーター部分は出っ張らせざるを得なかったのだ。また私が担当したステアリングコラムの操作スイッチは安価で確実な操作性を優先してダイヤル式に変更することになった。これは大きめのダイヤルにセレーションを付けることで、操作性と質感の高いデザインとした。完成したインパネは、イメージ優先で作った元のモデルの純度を一部失ったが、それでも新規性があると感じられた。さらに、インテリア全体としては開放的な室内空間、大胆な配色、スポーティなシートなどにより、これはきっと若いターゲット層に訴求するだろうと私は確信した。

2代目 ミラージュ インパネ承認モデル
インパネ承認モデル
2代目 ミラージュ シート承認モデル
シート承認モデル

―― 発売後の評価

2代目ミラージュは1983年10月に国内で発売された。さっそく自動車雑誌の反応を見てみると、「ユニークなダッシュボードが目を引く。これまでの日本車にはない雰囲気を持っている」と評価された一方で、デジタルメーターや操作系への言及はなく、自信があっただけにがっかりした。

販売初期には、「ベイビー!逃げるんだ」というキャッチコピーと共にロックミュージシャンの 忌野清志郎 を起用したキャンペーンなど、若者を強く意識した宣伝が大々的に展開された。その頃私は経験を積むため販売の現場に一時出向していたのだが、この車を求めて実際に販売店を訪れる主な購買層は40〜50代であり、若者を主対象としたデザインや販売戦略は残念ながら的外れで、市場とのズレが感じられた。

しかし、国内販売は伸び悩んだものの、その後はワゴンや4WD車の追加、さらに輸出の拡大によって世界市場で販売を伸ばし、2代目ミラージュはライフサイクル全体では年間平均約25万台を販売する三菱の主力車種へと成長した。私はその開発担当者であったことを意義深く感じた。

2代目 ミラージュ 量産車 インテリア
量産車 インテリア

―― 振り返って

このインテリアは、「若者志向と先進性」をとことん追求したものであった。しかし、いま振り返れば、それが本当にこの車の市場ニーズを反映していたかというと、そうではなかった気がする。この車は、2ドアハッチバック、4ドアハッチバック、4ドアセダン、4ドアワゴン、4ドアバンと幅広い車種展開をしており、ユーザー層はかなり幅広く、その中には上質さや高級感を求める層もあるわけで、それを「若者志向と先進性」という単純な切り口にしてしまったのは、無理があったのだろう、今にして思えばより多面的な視点が必要だったと感じる。

若さゆえの勢いと、自分たち自身の感覚を信じて突き進んだ開発だった。しかし振り返れば、多様なユーザーのニーズに対する答えにはより深い考察が必要だったのだ。それでも、既成概念に挑み、新しいインテリアの可能性を追求した経験は、当時入社したばかりの私にとってかけがえのないものであり、その挑戦の機会を与えてくれた上司や先輩の方々に深く感謝している。

2026年8月