三菱初の乗用車デザイン

 

本多 潔

三菱500のデザイン開発について、私は先輩から話に聞いた程度なのだが、残された資料と当時の状況を伝え聞いた三橋慎一さんのメモを元に、自分の考えも少し交えながら話をまとめる。

―― 国民車構想がキッカケ

戦後の日本は、1950年の朝鮮戦争による朝鮮特需を足掛かりにして、国内産業を育成することで経済の自立を目指した。1951年に乗用車生産の育成政策を進めた結果、各社で外国車のライセンス生産や乗用車の独自開発が活発化する。そうしたなか、1955年に「国民車構想」(正式には「国民車育成要綱案」)が発表された。これは政府が各メーカーに開発構想を提示するよう呼びかけたものだった。構想では最終選考に残った一社を育成援助し、国民車を集中生産させるという考えだった。乗車定員4名、最高時速100キロ以上、価格は25万円以下などの基準が示された。結局この構想は呼びかけだけで終わってしまったのだが、この時期三菱はちょうど大衆コンパクトカーで自動車産業に乗り出そうという機運にあり、新三菱重工名古屋製作所の技術者たちはこの課題に意欲的に取り組んだ。


―― 初めての乗用車デザイン

三菱はそれまでにトラック、バスを中心に数車種の車を作ってはいたが、本格的な量産乗用車の開発はこれが初めてであった。従って乗用車のデザインという仕事もこれが最初である。1956年、設計課所属の二村正孝さんをリーダーとして、重広宗太郎さん、家田務さんを主要メンバーとするタスクフォース的なチームが編成された。二村さんは、それまでバスの車体の艤装・デザイン担当であったが、三菱初の乗用車デザインの取りまとめを任されたことに大いに感激し、「これは自分の人生の大きなチャンスだ」と感じたと、後に語っている。

三菱で初めての乗用車デザインスケッチ

ベニヤ板に貼ったフルサイズのスケッチと二村正孝氏

初めにスケッチで様々なデザインを検討し、次にベニヤ板に貼った厚紙に1/1のサイドビューを描いて全体のバランスを確かめた。その次にモデルを作る場所がなくて困った。散々探し回った結果、社屋屋上の時計台の脇にクモの巣の張ったホコリだらけの部屋を見つけ、そこを仮のモデル製作室とした。

新三菱重工名古屋製作所の社屋

10畳ほどのその部屋で、チームは子供が学校で使う油粘土を使い、3案の1/10モデルを制作した。A案はフラットデッキの3ボックス、B案はコンサバティブな3ボックス、C案はファストバックだった。大学で工業デザインを学んだ重広さんは、アメリカ車で始まりつつあったフラットデッキスタイルが最も顕著なA案を推挙したが、幹部は新しさよりも従来的なまとまりを重視してB案に決定。私の推測だが、幹部にとっても車のデザインを決めるのは経験の少ないことであり、無理からぬ判断ではなかったかと思う。

重広氏が黒画用紙にポスターカラーで描いたレンダリング

三菱500クレイモデル

二村氏(右から2人目)、重広氏(右から4人目)、家田氏(右から5人目

1/10クレイモデル(左)                 1/10モデルと、デザインをリファインした1/5モデル(右)

デザインが決まった後、小さな1/10モデルを元に1/5モデルでデザインを磨き上げた。それを元にして航空機の現図(現尺の線図)技術を生かして1/1の外形図を作製し、設計へと繋げるアウトプットが出来あがった。この頃、技術者やマーケティング関係者による欧州での小型乗用車事情の調査が行われた結果、現地でのフィアット500の人気に刺激を受け、それまで計画していた360CCエンジンでは不十分であり、500CCに急遽変更するとの結論となった。軽自動車の枠を超えて一回り大きな車体になるわけだが、日程の遅れを最小限にするために、車体の線図はそのまま比例拡大するという判断となり、デザインの微調整が必要だと考えていた二村さんは大いに不満であったという。

三菱500開発中の1957年に発売されたフィアットNUOVA500

最終的なデザイン確認のために作られた木製のフルサイズモデル

この開発の中では風洞試験が行われたのだが、これはまだ他の国内自動車メーカーがそうした設備を持つ前の時代で、日本初のことだったであろう。それは自動車の空力理論そのものがまだ確立されていない時代であり、今日のレベルとは比較にはならないものの、空気力学がデザインに取り入れられる第一歩であった。

こうしたデザイン作業は、具体的なお手本があった訳ではなく全てメンバーの創意工夫によるものだったという。その後間もなく1961年に元GMデザイナーのハンス・ブレッツナー(Hans Bretzner)氏を招いてアメリカのデザイン技法を学び、本格的なデザインシステムが整うことになる。

三菱500の風洞試験

三菱500の開発に携わった技術者は、ほぼ全員がかつて航空機の開発に携わった人たちだった。そのため、この設計には航空機的な発想が盛り込まれている。ボディは軽量なモノコック構造で、しかもボンネットとフェンダーは溶接されており、まるで航空機の胴体である。丸味をもったボディも薄い鋼板で剛性を持たせるという技術的な発想から来ている。フロントグリルに相当する部分はスペアタイヤを収納するカバーで、このパターンのデザインを一般に公募して発売前の宣伝としていた。三菱500


―― 売れなかったが良いデザイン

1959年秋の東京モーターショーで三菱500は発表となるのだが、その直前に伊勢湾台風に襲われ、工場に置いてあった出品車は1.5mを超える海水に浸かり、浮んでいたという。しかし関係者の献身的な努力で無事モーターショーに晴れ姿を見せることが出来た。ショーでの反響は良かったのだが、その後の販売は芳しくなかった。初めての乗用車ゆえにエンジン性能、ハンドリング等の技術面や使い勝手等での様々な問題点に加え、デザインも評判が良くないという判断となり、早々と大掛かりなマイナーチェンジに取り掛かった。デザインは引き続き二村さんと重広さんが担当され、フロントにトランクスペースを加え、当時流行していたテールフィンを取り入れたスタイルに大きくデザインを見直した。2年後にコルト600と、名前も新たにして登場したが、これも劣勢を挽回することはできなかった。この頃日本はマイカーブームが始まり、同時期に登場した軽自動車のスバル360やマツダR360クーペは市場で好評を博したが、小型車の三菱500とコルト600は税制上不利であることが足枷となったようだ。

三菱500(左) コルト600(右)

三菱500が出た当時、私は高校生で既に車には強い関心を持っていた。しかし、この車のデザインにはあまり心を引かれなかった。若さゆえ目新しいもの目が向いていたのだと思う。ところが、歳をとって振り返ってみると、誕生から半世紀以上経った今、この丸っこいフォルムは完成度が高く、良くバランスがとれていて、人に愛着を感じさせる良いデザインだと感じる。ただそれでも、当時は時代に遅れたイメージが災いしたのかも知れない。


三菱500のカタログ

 

―― 三橋慎一氏と三菱500スーパーDX

入社2年目の三橋さんは、三菱500スーパーDX(後継車の600ccエンジンを先取り)を従業員販売制度を利用し月賦で購入した。既にコルト600にチェンジした後だったが、わざわざ在庫から旧モデルを選び、皆から変わり者と笑われたという。三橋さんは、新しいコルト600よりも古いスタイルに好感を持っていたのだ。40万円という価格は、当時の初任給で今に換算すると、5百万円以上の高級車に相当し、かなり思い切った買い物ではあったが、車を持つ喜びに値するものだったという。その頃は「自家用車」という言い方があり、個人が車を持ち始めた時代だ。やがて車の普及とともに自己紹介の趣味の欄にはドライブと書く様になり、三橋さんもこの車で友人と名古屋から三方五湖、東尋坊等遠方へのドライブを楽しんだ。因みに、三橋さんはその後、初代コルトギャランをデザインして三菱自動車のデザインを一気に世界レベルまで押し上げた人で、1995年に退職されるまでデザイン部門の牽引役として活躍されることになる。コルトギャランの登場を見て三菱自動車を志した後輩デザイナーは数多い。

三菱500スーパーDXでのドライブ

―― 三菱自動車デザインの祖 二村正孝氏

三菱500は時代の先を行く様なデザインではなかった。しかし二村さんにとって、三菱初の乗用車デザインをまかされたという感激が、あの親しみのわく、良いデザインへと繋がったのではないかと、私は思う。

二村さんは、いわば叩き上げで大変に行動力のある人だった。その後デザイン部門の初代トップとなり、長きにわたってその基盤を作り上げた。ランサーセレステをはじめとして1980年代初頭までのほとんどの車のデザインに関わるとともに、若手に多くの影響を与えている。その二村さんが退職した1980年のデザイン部門は、スタッフはおよそ100名、6つのデザインスタジオ、2つの展示室、広いモデルショップを有する大きな所帯がフル稼働していた。振り返れば、三菱500でクモの巣の張った小部屋からスタートしてから24年後のことである。

二村正孝氏がレストアした三菱500。後期型のスーパーデラックスがベースでフロント周りは初期型

2021年2月