70年代に羽ばたくハッチバック軽

中川多喜夫

 

―― 初代ミニカはライトバンベースの乗用車

三菱の軽4輪車の歴史は1961年3月に発売したライトバンの三菱360がスタートになった。その派生として1962年後部形状を変えて3BOXスタイルの乗用車を販売。これが三菱初の軽乗用車ミニカの誕生で、名前はミニマムカーを略したものであった。この初代は、マイナーチェンジを加えた8年間の販売を通して、その実績は三菱重工自動車部門の基礎作りに大きな貢献をした。しかし、ユーザーの要望は年々高度化し、乗用車的な乗り心地を含む乗用車感覚の要望、エンジン出力、燃費、吐煙など一層の改善の声が大きくなり、もはやライトバンの派生では限界であり、新しい本格軽乗用車として見直しが必要となり、1966年に2代目の開発がスタートした。

三菱360(左)初代ミニカ(右)

――  初代ミニカからのミニカ‘70の基本構造の違い

ボディはモノコックにして軽量化を計り、サスペンションはフロント、リヤとも板バネ式から、フロントはストラット式、リヤは5リンク/コイル式にして乗り心地向上を計る。駆動方式は変わらずFR方式を踏襲。


―― フルモデルチェンジの本格軽乗用車

軽四輪の法定制限寸法の中で、大人がゆったりと快適にくつろげる美しいスタイルが課題。当時、水島製作所のデザインは、計画設計課意匠係に所属の12~3名の所帯。まさに創成期で、デザイン開発体制をひとつひとつ整えていく状態であった。デザイン、モデル製作から人間工学、空気力学、生産技術など、基礎知識の習得に時間はいくらあっても足りない。実践しながらの体制づくりで、時間との戦いであった。


―― 軽自動車初
のアイディア

当時、乗用車と言えばリヤスタイルはトランクリッドを設けたノッチバックスタイルが主流だった。しかしそれをやめて、後部室内スペースを大きく明るくでき、しかも荷物の出し入れが容易な、大きく開くリヤゲートを採用してファストバックスタイルにした。これは軽乗用車として始めての試みだったが、商用車イメージ(バン)との違いを生かすデザインには苦労した。

スタジオ風景(左)フルサイズレンダリング(右)

―― 限られた寸度の居住スペース

明るく広い居住空間の設定に奮闘。当時は3次元計測器、3次元マネキン、計測データシステムなどがまだない時代で、人間工学的な検証は2次元であった。そのためシーティングバック(簡易居住空間モデル)を作り、居住空間の検証を行っていた。ミニカのパッケージはミリ単位の工夫が必要であり、特に後席のヘッドクリアランスがポイントで、人間による具体的な実測が必要となった。そこでシーティングバックができた時、人間工学90パーセンタイルの身長の高い人をモデルにして検証。モデルは当時勤労課に勤務していた、後のヤクルトスワローズのエース松岡弘(186㎝)さんにお願いして、十分な後席のスペースを確保するための検証ができた。

初期のシーティングバック

―― 話は変わって…登用論文(新入社員論文)の3次元計測機の発表

しばらくして、この問題を解決すべきと、今田信孝君が登用論文でインテリア3次元計測機計画を発表。良くできたアイディアであった。それを機にして、彼はインテリアデザインの担当になった。


―― インテリアデザイン

ダッシュボードは小林信一さんが担当。それまでの板金成型から、大型インジェクションによる樹脂一体成型で統一感のあるデザインにまとめる上げることが可能となり、ID的にシンプルにまとめた。またシートデザインは今田君が担当。デザインを持ってシートメーカーに日参し、ウレタン形状から縫製まで熱意を持って作り上げ、グッドデザインに仕上がった。

ダッシュボードのモデル

―― これからは空力が必要

第一次のモデルが完成。その試作車は、試作車作りの勉強を兼ねて、イタリアのカロッツェリア・コッジョラ社の板金職人を水島工場に招いて製作された。試作車はよくできていたが、デザインが直線・平面的であったので、久保常務から「これからは空気力学を考えなければならない、空気力学を本庄季郎顧問(著名な航空機設計者)のところで教えてもらえ」と指示があった。
すぐさま本社に行き理論を教わった。水島に戻り、早速理論に基づき1/5モデルを作製。前面投影面積は小さく、角は丸く、滑らかなサーフェス、アタックアングルをつけた姿勢、リヤは水滴のように滑らかに収れんが望ましいが、できない場合はスパッと切り落とすなど、本庄理論を反映したモデルを作製。これに赤い塗装をしたら、「これはダルマだね!」と厳しい評価でガクゼン!これが空力に関して経験した最初のモデル。未熟で洗練されてない空力モデルであった。ノート一冊になる資料は非常に勉強となったものの、よくよく考えると寸法の厳しい軽自動車では無理なことでもあった。

―― スタイルの仕切り直し

当時イタリアのカロッツェリアは隆盛しており、各社が活用していた。三菱も、自動車事業部長の久保富夫常務はイタリアのカーデザイナーを起用することを決め、自らイタリアに出向き、コルト800の次期車デザインを新進気鋭で若干29歳のジョルジェット・ジュジャーロ氏に依頼した。さらに、大物プレス型など板金技術の進んでいるトリノで試作車を作製することになった。しかし一次試作車が完成した頃、販売上の理由で幻の車となったのだが、その試作車のデザインチェックと勉強を兼ねてデザイン室の先輩岡野勝さんが渡欧し、成果の報告があった。幹部からは、この試作車デザインはよくできている、良いところをミニカ’70のデザインに参考にできないかとの指示があった。

初期のデザイン

―― 影響はミニカ’70に及んだ

これには若気の至り、火が付いた。この手の注文は一番困る。ホットコーヒにアイスコーヒを混ぜるようなもので、両方の良いところをなくすものである。仕事は順調に進んでいただけに、我々デザイナーは、これには反発した。自らのデザインを玉成する気持ちが発奮した。


―― 葛藤はパワーを生む

残業に残業 の日が続き、徹夜もあった。また一度完成したクレイモデルを壊して、木型のキャビンに乗せ換えてガラスをはめる、中抜きモデルに初めて取り組み、この工程にも時間が掛かった。出来栄えが良く、立派なモデルが完成。幹部にプレゼンテーションしたところ、コルト800次期車の良い所を非常に巧みに応用して良くできているとの評価。

最終デザインに近い中抜きクレイモデル

クレイモデル フロント ジュジャーロ氏のコルト800次期車のデザインを参考にリファインしたモデル。
  クレイモデル リヤ

―― 試作車はイタリアのバテラストラ

モデルも完成し、あとは順調に車体線図、そして試作からテストへと移行していった。このプロセスで特筆すべきことは試作車である。前述のイタリアの風が吹いているおり、この際板金叩き(成型)技術の習得のためプロトタイプもカロッツェリアに依頼する話となり、今度はフィッソーレ社に依頼することになった。
もともとカロッツェリアそのものはデザイナーと板金職人(バテラストラ)とが両輪で、貴族、富豪の注文に応じて、しのぎを削る訓練、切磋琢磨により培われたものであり、その出来栄えは芸術品と評されていた。そんな背景もあり、バテラストラはデザイナ-の意図を忠実に再現することが信条であり、決して自ら創造しないが創造の技量を持っている。どんな伝達方法でも良い。デザイナーの意図、表現があれば作り上げる自負を持っており、その腕は見事なものであった。このプロ魂は、試作関係者だけでなくモデラ―も学ぶことが多かった。


―― 賛否両論のリヤゲート

ファストバックスタイルと合わせてリヤゲートの採用は軽乗用車初の試みだった。営業部門へのプレゼンテーションでの評価では、「これはバンでないか…」との批判もあり、発表会ギリギリまで賛否両論があった。結局この問題は、これがこれからの主流となるデザインのトレンドだと説明して決着。

 



―― さらに高性能車「GSS (GRAND SUPER SPORTS)」を追加

GSSは、フロントグリルはフォグランプを組み込んだ丸4灯デザインとし、ホイールはスポーティな専用デザイン。精悍なスポーツ車の印象を演出した。フロントグリルのデザインは小林さん、ホイールデザインは今田君が担当。軽自動車各社が高性能車ブーム到来の旗揚げだった。

ミニカ70GSS

ミニカ’70GSS

―― むすび

いろいろと紆余曲折があったが、水島製作所の一丸となる熱意で開発は完了した。70年代に羽ばたく 車の願いを込めて「ミニカ‘70」の名で1969年7月に発売となり、続いて12月にはバンを発売。販売は好調で70年度は15万台を記録、軽自動車市場の一角をシッカリと占め、三菱の軽自動車の基盤を確立して行くのであった。物議を醸したリヤゲートであったが、今日の2ボックスカーの常識であるハッチバックスタイルは、このミニカ´70の成功によって国内に広まったことは最大の成果であろう。

ミニカ ’70

ミニカ’70 インテリア

 

2021年8月