ファストノッチの豆タンク

 

株式会社コボ 代表取締役社長 山村真一

―― 狙いは大衆スポーツモデル市場

1960年代後半、初代ギャラン(以降ギャラン)セダン、ハードトップ、GTOなどギャランシリーズのデザインが一段落した頃、急遽ギャランクーペFTO(以降FTO)のデザインプロジェクトがスタートした。その頃、意匠課のスタジオは三菱重工名古屋製作所大江テストコース内の研究棟1階の南側で、東から第一スタジオ、第二スタジオがギャランシリーズ、その奥の第三スタジオが我々のFTOのスタジオだった。これが大江での最後のプロジェクトで、この後1970年からは岡崎の新しいデザイン棟へと移ることになる。

当時トヨタ・カローラ、日産・サニーなどによって、日本の大衆車市場は高度成長とともに急激に拡大していた。三菱はギャランでその上のクラスには対応したものの、大衆車クラスの車は販売が不振のコルト1000Fであり、その実質的後継車となるランサーの開発にはまだ準備が整わない状況であった。そこで、ランサーが出るまでの間に少しでも早く大衆車市場に参入するため、カローラスプリンターやサニークーペなどの大衆車スポーツモデル市場に向けてFTOをタイムラグ対策車として開発することとなった。また当時は、三菱ディーラーの営業力を補う商品力のある車種をいかにしてデザインするかも大きなテーマであった。その頃ディーラーへのアンケートリサーチで「新機種開発に対して期待することは何ですか?」の問いに返ってきた答えの多くが、「事務所に居て、電話だけで売れる車を作って欲しい!」であった。当時トヨタや日産のディーラーに比べ、あまりにも少ない営業マンの人数は、相当なハンディであったことは事実であった。そこで、その頃の若者にとってスポーティな車はあこがれの的であり、求めやすい価格で個性的な魅力を持ったスポーツモデルに一つの可能性が考えられた。

1968年登場のカローラ スプリンター   画像提供:Motor Fan / CARSTYLING

―― ギャランを短くした「豆タンク」

早急に大衆車市場の一角に参戦する必要性から、FTOの開発スケジュールは驚くほどタイトな計画となった。ギャランをベースとして全長とホイールベースは大衆車並みに短くし、ドアはハードトップと共用、ボンネットはセダン、ハードトップと共用であった。エンジンは1400㏄と1600㏄の2種類であったが、私と小林健作さんとの提案で2000㏄搭載のアッパークラスがあってもよいのでは、と提案したのであるが、乗用車商品企画部の反対で却下されてしまった。社内では「豆タンク」というニックネームを付けられたこの車は、ファストバッククーペのスタイルであることから、後に車名にクーペが付いたが、後席は屋根こそ低いものの、大衆車にしては室内がワイドで、5名乗車が可能であった。今で言うとトヨタヤリスGRの様なワイドトレッドでクーペスタイルのコンパクトカーと言える。

ギャランクーペFTO スケッチ
―― 寝食を忘れての仕事

このデザインプロジェクトはデザイナーが小林健作さん、私、伊藤敏博さん、原田さん、モデラーが三矢さん、椎葉さん、線図担当は「線図の神様」と言われた東松さん、新婚早々の「お父ちゃん」こと長谷川さん、などホットなメンバーで編成された。スケジュールが超タイトであっため、デザイン開発の終わりの頃には寝食を忘れて仕事に打ち込む日々が続いた。夜遅くにモデラーの三矢「シェフ」がデコボコの洗面器で作ってくれた夜食のインスタントラーメンを4~5人づつが交代で囲んで食べたのは懐かしい思い出である。

ギャランクーペFTO テープドローイング

 

―― 個性的ファストノッチ

デザイン面で大変難しかったのは、ギャランより全長がが315㎜も短くなっているので、後席のヘッドクリアランスを確保するとリヤウインドウが立って、ファストバックスタイルではトランクリッド開口部が小さくなってしまう。それではと、リヤゲートタイプにすると、ヒンジ部の強度不足とシーリングに問題があると設計に反対された。やっとの思いで考えついたのが中央部(リヤウインドウ)はノッチバックで、側面(リヤピラー)はファストバックスタイルという今までなかった新しい「ファストノッチ」スタイルであった。

最初のテープドローイング

早速、名古屋航空機製作所の風洞試験室に計測を依頼し、徹底した風洞テストと分析を行った結果、予測はしていたが計測結果は相当によく、特に横風安定性に優れ、後部の空気の乱流も大変少なく、抵抗値も低かった。リヤドライブ車の特性であるロードホールディング性などとの相性が大変良いという素晴らしい結果で、全員大喜びしたのが忘れられない。辛口で知られる生産技術部の山下課長は、このファストノッチスタイルの少々変わったリヤピラーを見て「また意匠は難しいことをやってくれるなー、オッサン」と述べたが、この難しさも生産技術部若手の後藤さんや大竹さん達のプレス型の工夫により、事なく解決されたのである。

ファストノッチの特徴が強い初期のデザイン

リヤ周りのデザインは、ワイドなイメージを強調するため横一文字型のシンプルなテールランプで、中央部のFTOのガーニッシュ幅は当時車両法に決められていたランプ間400㎜を守りまとめた。またフロントグリル周辺は、ボディの共用部品が多いためデザインラインの設定がなかなか難しかったが、東松さんや長谷川さんとともに苦労してまとめることが出来た。完成したデザインは期待以上に好評で、デザイン審査も珍しく一回で決まり、内外装部品デザインや生産設計フォローの仕事に移行した。

 

ギャランクーペFTO クレイモデル

 

―― 中止となった左ハンドル仕様

インテリアの計器盤周りのデザインは、当初、北米輸出を考慮し計器盤の表面骨格や強度部材であるリンフォースメントなどを左右対称形状として左ハンドル仕様との互換性のあるデザインとしたが、最終的には左ハンドル仕様は中止となり残念であった。ステアリングホイールは、当時としては珍しい、表面を全て軟質材で覆ったデザインだった。六角形のモチーフにステッチをあしらったユニークでスポーツ心をくすぐるこのデザインは、若手の今田さんが提案し、採用されたことを記憶している。

今田氏がデザインしたステアリングホイールを付けたインテリアモデル

―― 雑誌取材での出会い

1971年11月の発表、発売後の評判も売れ行きも結構よく、タイムラグ対策車としての役割も十分果たせたと、みんなで祝杯を挙げたのである。まもなくして雑誌社からの取材の話がやって来た。「三菱はチームでデザインするので」とお断りしたのであるが、二村課長からぜひ出席するようにと言われた。私が対応したのは、当時出版されたばかりの平凡パンチ誌で「若手デザイナーとスポーツカーデザイン特集号」であり、「トヨタセリカ」と「三菱ギャランクーペFTO」の取材であった。私は当時三菱の山岳部で、毎年正月は冬山登山など、山に夢中だった時期だったので「冒険とデザイン」についての話しをしたのが、記者に喜ばれ「挑戦する三菱のデザイナー」と書かれたのを覚えている。またこの平凡パンチ誌記載以来トヨタ・セリカをデザインした藤田昌雄氏との交信もあり、同年代で大阪出身の同郷でもあったため、私が三菱を退社してからも彼が亡くなられるまでの、良きライバルでもあり良き友人でもあった。

galant coupe FTO


―― 今も変わらない思い出の場所

このFTOのプロジェクトが終わってまもなく、デザイングループは大江から岡崎への移転となった。私の入社時の大江本館4階時計台の下の小さなスタジオに始まって、テストコース内のスタジオまでの、思い出深い大江工場での最後のデザイン室であった。私は最近までМRJ(後にスペースジェット)などの三菱重工との打ち合わせで、大江の時計台のある本館を訪れることがあり、入社式を行った当時とほぼ変わらない本館の様子に、大江で過ごした時が懐かしく、胸が熱くなるのである。

三菱重工名古屋の時計台

2022年5月